2013年1月10日木曜日

平成18年6月27日 
那覇市国民保護条例に関する議案に反対する
日本共産党渡久地修市議(当時)の反対討論

◆渡久地修 議員 

 議場の皆さん、おはようございます。
 私は、戦後世代です。去年の6月、私たちの大先輩の当真嗣州さんが32年間議員を務めて、ちょうど6月のこの定例会で勇退いたしましたが、そのときに自分の政治的な原点、戦争を絶対繰り返してはならないということを去年、ここで一生懸命述べて、勇退していきました。
 きょう、この討論に際しまして、事務局に調べてもらいましたら、44人の議員中、8人の方が戦争体験者です。そして、私を含めて36人の方が戦後生まれです。そして、そのうち3人の方が復帰後世代です。そういう意味で私たちは沖縄戦の悲惨な実体験を風化させないために、努力していくことが求められていると思います。

 私は、日本共産党を代表して、議案第55号、那覇市国民保護協議会条例制定についてと、議案第56号、那覇市国民保護対策本部及び那覇市緊急対処事態対策本部条例制定について、に反対の立場から討論を行います。

 あの忌まわしい沖縄戦が終わって61回目の6月23日、「慰霊の日」が今年もやってきて、そして過ぎていきました。住民を巻き込んだ地上戦が戦われ、20数万人の貴い命が奪われ、県民の4人に1人が亡くなりました。住民保護の名の下に、軍隊の作戦行動の邪魔にならないようにと、住民は、強制的に南部や北部に避難させられ、学童疎開で本土、台湾へと避難させられていきました。
 住民を守るはずだった軍隊によって、避難壕から住民は追い出され、また、住民はスパイ扱いされ、あるいは集団自決の強要など、数々の悲劇的な事件も起こりました。対馬丸の悲劇、戦争マラリアの悲劇、私たちは、このような沖縄戦の悲劇を二度と繰り返してはなりません。
 糸満市摩文仁にある、県立平和祈念資料館に県民の誓いの言葉があります。
 「沖縄戦の実相に触れるたびに、戦争というものは、これほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。この生々しい体験の前では、いかなる人でも、戦争を肯定し美化することはできないはずです。戦争を起こすのは、確かに人間です。しかし、それ以上に戦争を許さない努力ができるのも、私たち人間ではないでしょうか。戦後この方、私たちはあらゆる戦争を憎み、平和な島を建設せねばと思い続けてきました。これが、あまりにも大きすぎた代償を払って得た、譲ることのできない私たちの信条なのです」と書かれています。私は、6月23日が来るたびにこの言葉を思い起こします。

 今回、提出された条例案は、この沖縄県民の心情を逆なでするかのように、再び戦争のための準備をしているような危惧を抱かせるものであります。
 条例案は、国の武力攻撃事態法とそれにもとづく国民保護法がその大もとになっています。
 条例案の説明でも明らかなように、沖縄や那覇市への武力攻撃を想定したものになっています。その武力攻撃とは、敵の着上陸侵攻、ゲリラや特殊部隊による攻撃、弾道ミサイル攻撃、航空攻撃を想定しています。
 条例審議の中で、どの国が、那覇市のどこに着上陸侵攻してくることを想定しているのかなどの質問に対して、当局は、これから協議会で検討するという一点張りで、一切答えることができませんでした。

 歴代自民党政府はこれまで、ソ連脅威論を振りまいて日本への侵略の危険をあおり、有事法制の必要性を主張してきました。しかし、ソ連が崩壊して以後の国際情勢の大きな変化の中で、この種の脅威論はもはや説得力も失なっています。実際、政府が昨年12月に策定した「防衛計画の大綱」では、「冷戦終結後10年以上が経過し、米ロ間において新たな信頼関係が構築されるなど、主要国間の相互協力・依存関係が一層進展している」という情勢認識を示して、「見通し得る将来において、我が国に対する本格的な侵略事態生起の可能性は低下していると判断される」と明記しているではありませんか。
 また、武力攻撃のときに、住民の避難といいますが、法案では、実際には、米軍・自衛隊の作戦行動を最優先する仕組みのもとで、作戦地域から邪魔になる住民を排除するために避難させようとするものになっています。住民の保護の名のもとに、沖縄戦では多くの住民が戦争に巻き込まれ犠牲になったのは、歴史の事実ではありませんか。
 さらに、今回の条例案は、消火や医療、負傷者の搬送などに市民を駆り出し、物資を収用し、報道を規制し、罰則までつけて、国民・市民を戦争に動員していく仕組みになっています。
 しかも、今回の条例案の重大なことは、那覇市に自衛隊なども加わった国民保護協議会を設置し、市民動員の計画を作成し、訓練を行い、市民への啓発を行おうとしていることです。
 まさに、日常的に、「日本が攻撃されるぞ」「那覇市が攻撃されるぞ」という危機意識を植え付け、普段から戦争体制に市民を組み込むシステム作りにほかなりません。そして、それは、日米軍事同盟体制維持、沖縄への新基地建設押し付け、軍備増強、米軍と自衛隊の一体化、軍事費増大、軍需産業の肥大化へとつながっていき、アメリカがアジアで引き起こす戦争に、日本も一緒に参加するという体制を作り上げていくことが大きな目的なのです。
 さらに、今回の条例案は、自衛隊などが参加し、国民保護協議会をつくって、保護計画を作るということになっていますが、一たんこの組織をつくってしまえば、市民の代表である議会が一切その内容に関与できないものになっています。まさに、議会のチェックなしに、備えあれば憂いなしと言って、戦前の軍部が侵略戦争へと暴走していったものと何にも変わらない恐ろしいものになっています

 議場の皆さん、市民の皆さん、今度の条例は、国が決めたことだから、仕方がない、法律どおりに那覇市はやるだけと言っている方々もいますが、それで済まされるものでしょうか。戦争はいきなりやってくるものではなく、国民、市民の気がつかないうちにひたひたと忍びよってくることを教えています。

 1925年、大正4年、治安維持法制定。
 1931年、昭和6年、満州事変。
 1933年、昭和8年、小学校1年生の国定教科書の改悪。
 それまでの「ハナ、ハト、マメ、マス、ミノカサ」といった小学校の読本が、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」になり、小学校唱歌は、「春の小川はさらさらいくよ」から、「肩を並べて兄さんときょうも学校へいけるのは兵隊さんのおかげです」に変わっていきました。
 1938年、昭和13年、国家総動員法制定。
 1940年、昭和15年10月、大政翼賛会。
 1941年、昭和16年、真珠湾攻撃、太平洋戦争の勃発。
 1945年、昭和20年、沖縄戦。
 1945年8月、広島、長崎に原爆投下。

 1974年4月11日、自民党幹事長代理だった野中広務氏は、駐留軍用地特別措置法(特措法)の委員長報告の最後に、「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いを」と、喝破しました。

 皆さん、みんな「右へならえ」でいいのでしょうか。
 地上戦を体験した沖縄県民、那覇市民の平和への思いを私たちは国や全国に伝え、戦争を食い止める責務があるのではないでしょうか。国が決めたことだからで済ましてはなりません。

 2003年6月、武力攻撃事態法が成立しました。
 2004年1月、自衛隊のイラク派遣。
 2004年6月、武力攻撃事態等における国民の保護のために関する法律をはじめ、米軍支援法など関連七法が成立しました。
 2006年5月1日、在日米軍基地の再編計画の日米最終合意が行われました。
 2006年6月、この那覇市議会で国民保護法に基づく条例が提案されました。
 そして2006年、通常国会へ、戦前の治安維持法を思い起こさせる共謀罪法案が提出されました。
 同じく2006年、通常国会へ、愛国心などを強要し、国家が教育に介入できるようにする、教育基本法改悪案が国会に提出されました。
 2006年、そして、とうとう憲法改定のための、国民投票法案が提出されました。
 まさに、ひたひたと再び戦争のできる国への道、戦前になりつつあるのではないでしょうか。

 戦前、ナチスに最後まで抵抗し、敗戦までダッハウの強制収容所につながれた神学者、マルチン・ニーメラー牧師の有名な言葉があります。
 マルチン・ニーメラー牧師はこう言っています。

 「共産党が弾圧された。
 私は共産党員ではないので黙っていた。
 社会党が弾圧された。
 私は社会党員ではないので黙っていた。
 組合や学校が閉鎖された。
 私は不安になった。しかし黙っていた。
 教会が弾圧された。
 私は牧師だから行動に立ち上がった。
 しかし、その時はもう遅かった。」

 議場の皆さん、市民の皆さん、ワイツゼッカー元ドイツ大統領は、「過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在に盲目になる」と述べました。
 我々は、ものを言わなければならないときには、ものを言う勇気を持ち、言うべきときに言わなければ、言うことができなくなる時期があるということを、歴史の教訓の中から引き出すべきではないだろうかと思います。

 1946年11月3日、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と日本国憲法が制定されました。
 憲法第9条に、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と、規定されました
 あの侵略戦争の反省と教訓から導き出された、世界に誇るべき規定です。この憲法の精神と9条こそ、私たちが平和に生きる道筋を示しています。今の時期こそ、私たちが大きな声を上げ、戦争につながる一切のものに、ものを言うべき時期です。

 二十数万人の貴い命が奪われた、沖縄、那覇市の議会として、将来に禍根を残さないような判断が必要だと思います。

 議案第55号、那覇市国民保護協議会条例制定についてと、議案第56号、那覇市国民保護対策本部及び那覇市緊急対処事態対策本部条例制定について、反対するものです。
 議員各位のご賛同をお願いします。

「しんぶん赤旗」2013年1月10日

主張


障害者「基本合意」3年


国は完全実施の約束を果たせ


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 障害者の生存権を侵害する障害者自立支援法を廃止して新しい法律をつくることを、政府が約束した「基本合意」締結から7日で丸3年となりました。障害者政策の発展にとって大きな意義をもつ合意が交わされた日を記念して、全国から障害者らが東京に集まり、「基本合意」の全面実施を求める大行動に取り組みました。政府は約束を守り、自立支援法をきっぱり廃止し、障害者の権利を十分保障する「障害者総合福祉法」制定に踏み出すべきです。

勝ち取った羅針盤


 2010年に結ばれた「基本合意」は、自民・公明政権が実施した自立支援法に反対し、廃止を求めた障害者・家族をはじめとする国民的なたたかいの広がりのなかでかちとった歴史的な文書です。

 06年施行の自立支援法はもともと、障害者が生きるために不可欠なサービスを「益」とみなし、原則1割の「応益負担」を強いる生存権侵害の悪法でした。障害が重い人ほど負担が重くなる仕組みに怒りがわきおこり、障害者ら71人が14の地方裁判所に違憲訴訟を提起するなど運動へ発展しました。09年総選挙では、社会保障切り捨て路線を推進した自公政権に退場の審判が下され、かわって発足した民主党政権が違憲訴訟原告・弁護団と締結したのが「基本合意」です。

 「基本合意」は、自立支援法導入が「障害者、家族、関係者に対する多大な混乱と生活への悪影響を招き、障害者の人間としての尊厳を深く傷つけた」として国が「心から反省」を表明し、同法の廃止を明記しました。さらに新法制定にあたっては「障害福祉施策の充実は、憲法等に基づく障害者の基本的人権の行使を支援する」とうたいました。「基本合意」は、すべての障害者の権利を保障する障害者権利条約の理念に沿ったもので、今後の国の障害者政策の羅針盤となるべき内容です。

 「基本合意」を受けて、違憲訴訟は和解し、政府は障害者が加わった「障がい者制度改革推進会議」を設置、その下におかれた「総合福祉部会」は11年、障害者を保護の対象から権利の主体へと転換することなどを理念にすえた新法に向け「骨格提言」を発表しました。

 ところが、その後の民主党政権は「民自公路線」を加速させ、自立支援法の看板をかけ替えただけで「応益負担」などの根幹部分を温存した「障害者総合支援法」を昨年成立させました(4月施行予定)。約束を踏みにじり、障害者を再び深く傷つけた民主党と自公の責任は重大です。

 昨年末の総選挙で自公政権が復活しましたが、政権交代しても、国が障害者と結んだ「公的な約束」という「基本合意」の重みは変わりません。自公政権は「基本合意」の完全実施の立場にたち、原告・弁護団などとの定期協議を開催し、「総合支援法」の抜本的な見直しをすすめるとともに、障害者が求める「障害者総合福祉法」を実現するべきです。

逆戻り許さぬたたかいを


 障害を本人の「自己責任」ととらえて過酷な負担を強いる障害福祉政策への逆戻りは絶対に許されません。障害者のたたかいが手にした「基本合意」を踏まえ、憲法25条にもとづき生存権が保障される政治を実現する運動がいよいよ重要です。