那覇市国民保護条例に関する議案に反対する
日本共産党渡久地修市議(当時)の反対討論
◆渡久地修 議員
議場の皆さん、おはようございます。
私は、戦後世代です。去年の6月、私たちの大先輩の当真嗣州さ
きょう、この討論に際しまして、事務局に調べてもらいましたら
私は、日本共産党を代表して、議案第55号、那覇市国民保護協
あの忌まわしい沖縄戦が終わって61回目の6月23日、「慰霊
住民を守るはずだった軍隊によって、避難壕から住民は追い出さ
糸満市摩文仁にある、県立平和祈念資料館に県民の誓いの言葉が
「沖縄戦の実相に触れるたびに、戦争というものは、これほど残
今回、提出された条例案は、この沖縄県民の心情を逆なでするか
条例案は、国の武力攻撃事態法とそれにもとづく国民保護法がそ
条例案の説明でも明らかなように、沖縄や那覇市への武力攻撃を
条例審議の中で、どの国が、那覇市のどこに着上陸侵攻してくる
歴代自民党政府はこれまで、ソ連脅威論を振りまいて日本への侵
また、武力攻撃のときに、住民の避難といいますが、法案では、
さらに、今回の条例案は、消火や医療、負傷者の搬送などに市民
しかも、今回の条例案の重大なことは、那覇市に自衛隊なども加
まさに、日常的に、「日本が攻撃されるぞ」「那覇市が攻撃され
さらに、今回の条例案は、自衛隊などが参加し、国民保護協議会
議場の皆さん、市民の皆さん、今度の条例は、国が決めたことだ
1925年、大正4年、治安維持法制定。
1931年、昭和6年、満州事変。
1933年、昭和8年、小学校1年生の国定教科書の改悪。
それまでの「ハナ、ハト、マメ、マス、ミノカサ」といった小学
1938年、昭和13年、国家総動員法制定。
1940年、昭和15年10月、大政翼賛会。
1941年、昭和16年、真珠湾攻撃、太平洋戦争の勃発。
1945年、昭和20年、沖縄戦。
1945年8月、広島、長崎に原爆投下。
1974年4月11日、自民党幹事長代理だった野中広務氏は、
皆さん、みんな「右へならえ」でいいのでしょうか。
地上戦を体験した沖縄県民、那覇市民の平和への思いを私たちは
2003年6月、武力攻撃事態法が成立しました。
2004年1月、自衛隊のイラク派遣。
2004年6月、武力攻撃事態等における国民の保護のために関
2006年5月1日、在日米軍基地の再編計画の日米最終合意が
2006年6月、この那覇市議会で国民保護法に基づく条例が提
そして2006年、通常国会へ、戦前の治安維持法を思い起こさ
同じく2006年、通常国会へ、愛国心などを強要し、国家が教
2006年、そして、とうとう憲法改定のための、国民投票法案
まさに、ひたひたと再び戦争のできる国への道、戦前になりつつ
戦前、ナチスに最後まで抵抗し、敗戦までダッハウの強制収容所
マルチン・ニーメラー牧師はこう言っています。
「共産党が弾圧された。
私は共産党員ではないので黙っていた。
社会党が弾圧された。
私は社会党員ではないので黙っていた。
組合や学校が閉鎖された。
私は不安になった。しかし黙っていた。
教会が弾圧された。
私は牧師だから行動に立ち上がった。
しかし、その時はもう遅かった。」
議場の皆さん、市民の皆さん、ワイツゼッカー元ドイツ大統領は
我々は、ものを言わなければならないときには、ものを言う勇気
1946年11月3日、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が
憲法第9条に、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保
あの侵略戦争の反省と教訓から導き出された、世界に誇るべき規
二十数万人の貴い命が奪われた、沖縄、那覇市の議会として、将
議案第55号、那覇市国民保護協議会条例制定についてと、議案
議員各位のご賛同をお願いします。