「アカハタ」1963年6月25日付から
映画 新安保条約から3年(下)
観念の遊戯をのりこえてすすむ人民の闘争―山田和夫
こういう断絶と否定の思想は、生きいきとした現実の発展のなかにかれることのない、芸術的なイメージをくみ出すのではなく、せまい作家の「主体的」な観念のなかにいっさいの創造の源泉をもとめるさかだちした理論になります。記録映画作家の一部をとらえた「主体性論」がそうですし、花田清輝らはこれを〝シュール・ドキュメンタリー〟と称する奇妙な「理論」に反映させました。大衆べっ視の思い上がった作品
そして、このさかだちした「主体性論」は、一部の知識人たちのエリート(選良)意識をかきたて、広範な大衆を〝衆偶〟ととらえる思いあがった態度となってあらわれます。大島の「日本の夜と霧」では結婚式の祝辞をのべ、「若者よ」を合唱し、フォーク・ダンスをおどる女子学生たちがなんと見くだされ、軽べつされたえがき方をされていたことでしょう。同じように、松本俊夫が監修した記録映画「安保条約」は、製作の主体である労働組合の意向を押し切って出来そこないのアヴァンギャルド映画になり、そこでは安保条約のおそろしさが感覚的に強調されるとともに、大衆は無関心で太平ムードにひたっている〝衆偶〟として登場しました。釣場で糸をたれ、海辺でレジャーをたのしむ大衆の姿がその象徴のようにとりあげられたのです。そのあやまりは、あえて説明するまでもないでしょう。その作家的感覚は、「安保反対が国民の声だといっても、映画館や野球場は満員だ」とうそぶいた岸信介とえらぶところはありません。
黒沢の近作にみる色濃い孤立感
こうした大衆にたいする見くだしたような態度もまた〝安保闘争〟の主力は学生と知識人だったという思いあがった姿勢のうらがえしでした。そして、同じようなエリート意識が〝安保〟以後の黒沢明作品にあらわれてきたことを、私たちはみのがすことはできません。
黒沢明は〝安保闘争〟のまっただなかで、「悪い奴ほどよく眠る」ととりくんでいました。そのころ、〝安保闘争〟に積極的に参加していた監督新人協会の東宝支部が黒沢監督にぜひ集会に出席してほしい―と要請したことがあるそうです。そのとき、黒沢監督は「ぼくは集団とはいっしょにやらない。ひとりでやります」と答えたときいています。
たしかに黒沢は「悪い奴ほどよく眠る」で人民の汚職にたいする怒りをつよく代弁し、政治機構の腐敗に迫りました。と同時に、〝安保闘争〟へのかれ自身の姿勢と同じように、「悪い奴ほどよく眠る」の主人公(三船敏郎)はだれの力も借りず、ただ一人で巨大な機構に挑戦します。汚職の犠牲となって自殺した父の復しゅうのため、現公団総裁の秘書にもぐりこみ、着着と計画をすすめます。しかし、権力は直接の暴力まで動員し、かれのたたかいは無残な敗北をとげ、「これでいいのか!」という友人の悲痛なさけびがいつまでも画面にこだましたのです。
しかし、黒沢は「悪い奴ほどよく眠る」で少なくとも個人の孤立したたたかいー敗北すべきたたかいを敗北としてえがき出しました。次作「用心棒」(1961年4月)、「椿三十郎」(1962年1月)になりますと、「悪い奴ー」のヒーローが完全に現実から離脱し、観念のなかの超越的な個人ーいわばスーパーマンに変ぼうします。「用心棒」の宿場には、大衆の姿は見えず、ヒーローの三十郎は二組の暴力団のみにくい争いを火の見やぐらの上から、高見の見物をします。「椿三十郎」の若侍たちは、三十郎のいうように「まったくあぶなっかしくて見ていられない」連中としてえがかれています。その若侍たちがいわば素朴な大衆の代表なのです。
「用心棒」や「椿三十郎」は東宝資本の〝大作主義〟路線にのっとって、黒沢自身「映画のおもしろさをねらった」といっている「娯楽映画」です。それがますますアメリカ映画的な「おもしろさ」に傾いてゆく問題点とともに、私たちは黒沢の集団や組織への不信、異和感、そして大衆より孤立した個人への傾斜ーといった姿勢を見おとすことができません。