2011年3月29日火曜日

福島県南相馬市原町区

3月下旬、東日本大震災で地震津波被害の現場であり福島原発から20キロ県内の福島県南相馬市原町区へ行きました。
鉄塔はなぎ倒され家屋は流されました。凄まじい津波被害です。がれきと泥が一面に広がっています。

福島原発から20〜30キロ圏内のため土砂の下の捜索が進んでいません。今日は晴天ながら乾いた冷気で時折パラパラと雪が降ります。被災地の乾いた地面からヒューと土埃が舞いました。

街中はゴーストタウン状態です。7万の人口のうち5万人が避難されたそうです。
石油も日用品、医療品、食糧も足りません。危険だとして物質が届かないのです。

正確な情報が入らず大手マスコミも近よらない、まるで陸の孤島ではないか、困った時は助け合うのが日本人の美徳ではないか、と避難せず頑張っている自治体関係者はいら立ちを隠しません。

市役所屋上で放射能を計測していた自衛隊が測定器を置きっぱなしにしていなくなったことも。どうしたことでしょうか。
情報が開示されていないのです。

そんな中、富山県南砺市は「200年前、天明の飢饉の後に富山から相馬に約7000人の移住を受け入れてもらったお返しです」と田中幹夫市長先頭にボランティアにやってきました。

大飢饉の後、人口の減少が大問題に。移住がご法度だった江戸時代、浄土真宗の宗徒が大きな役割を果たしました。

コンビニも昨日からセブンイレブンが営業再開しました。

ホーホケキョ

3月29日、飯能原市場では赤白の梅が満開です。
朝はまだ寒く、山から吹く秩父おろしで車のフロントガラスが半分凍っていました。
そんな朝、ホーホケキョとウグイスが春を告げます。

2011年3月14日月曜日

3月11日午後2時46分。強烈な地震です。

私は、3月11日、永田町参院本館1階にいました。午後3時前大きな名揺れがあり地震体感。参院決算委員会が中止になり自民党の新人女優議員が飛び出てきます。交通機関が止まりました。控え室のテレビで津波が押し寄せてくるのを見ました。家が車が押し流されていました。凄い恐怖を覚えました。
kitakaBのIさん運転でKD参院議員が被災現場へ行くので同乗させてもらうことになりました。国会泊椅子で寝ます。

12日、午前3時30分、写真のYさんと地下鉄でkitasへ。Yさん運転で集合場所のW市駅へ。6時30分着く。S、DK組で分乗。余震が続きます。関越道から4号線に。探りながら福島、仙台をめざしました。塩原のスーパーに入ると、電気、水道が止まっていました。食糧求める多くの人。
いわき市小名浜港へ着き、被害現場見ました。船が乗り上げています。片付けをしていた市民からお話を聞かせていただきました。小学校が避難場所になっています。避難している親子に話を聞きました。
福島第一原発が爆発。近くの道路を通りました。サイレンをあげて数台の緊急車両とすれ違いました。私の携帯電話は不通になり電池も切れました。
郡山市で泊まることに。
13日、福島県庁へ申し入れ。
M88からM90に変更され史上4番目の震災に訂正されました。福島原発事故拡大。

仙台市に入りました。ガソリンを求める長蛇の列。印刷工場が被災し新聞が届いていないことが判明。私が今いるビルは、電気、水、電話が大丈夫。
宮城県庁へ。トイレの水が出ません。
県知事に申し入れ。
夜がふけるが被害が大きい若林区の避難場所へ。「学校前の田んぼまで津波がきた」と、自ら被災されたかた先頭に、
JAと中学校の避難場所へ行きました。真っ暗。電気が来ていません。被害現場を見て要望を聞いて欲しいの声がおおくありました。
妻の姉さんが近くにいるが連絡が取れません。
14日、
林区被害現場へ。凄い津波のあと。一面に土砂とガレキ、海水と油に臭い。避難場所の東郷小学校へ。車が流され1階の教室にはまり込んでいました。
仙台港へ。
トヨタモーターブール、缶工場、レジャー施設がある開発地。
輸出用新車が転がり、缶が道路上に転がっていました。
港が見える高い場所へ。
左にコンビナートが燃え、右に大型船が乗り上げていました。
時計は4時5分を指したままでした。