2013年3月26日火曜日


追悼 映画評論家、山田和夫氏の主要映画評を紹介します。
「アカハタ」1963年6月24日付から

映画 新安保条約から3年  
「日本の夜と霧」に代表される断絶と否定の論理③


 大島は前年の処女作「愛と希望の街」で、ブルジョワ階級とプロレタリア階級の間には甘っちょろいヒューマニズムではどうにもならない断絶があることを、わかりやすくしかも新鮮にえがき出しました。階級間の断絶を確認することは正しいことです。ところが、第二作「青春残酷物語」になりますと、階級間の断絶が世代間の断絶にすりかわり、川津祐介、桑野みゆきら若い世代のエネルギーのアナーキーな放出が、桑野の姉や父の世代のうじうじした、だらしのない行動と図式的に対比されます。佐々木基一らが絶賛した有名なシーン―カーテンの手前に彼女が妊娠中絶したからだを横たえ、まくら元でかれがだまってリンゴをかみつづけます。カーテンの向こうで彼女の姉とその恋人である医師の去勢されたような会話。こみあげる怒りをかみしめるようにリンゴをかみつづけるかれ。長い長いワン・カットのシーンが世代間の隔絶をきわだ立たせました。

 

戦後の成果すべてを清算主義的に否定


 このような大島の思想と方法は、〝安保闘争〟のまっただなかでつくられた「太陽の墓場」で過去との断絶、戦後の成果をいっさい清算主義的に否定しようとするイメージとなってあらわれます。ラスト・シーンでドラマの舞台であるドヤ街のバラックが焼け、焦土の上を「終戦のときと同じだ」というせりふが流れるのです。それはつづいてつくられた「日本の夜と霧」で語られる「戦後は615日よりはじまる」というせりふとピッタリ照応します。

 こうして「日本の夜と霧」では階級間→世代間→過去と現在と変容してきた断絶と否定の論理は終着駅にたどりつき、歴史の主体である労働者階級とその前衛との断絶・否定という結果になってしまうのです。「日本の夜と霧」がインテリ同士だけの討論劇―もっと極端にいえばおしゃべり劇になり、知識人の間でさえ限られた支持しかうけられなかったこと、広範な大衆とは感覚的にも、知性的にも縁もゆかりもない「芸術」にとどまったことは、当然の帰結といえるでしょう。

 大島のこうした姿勢は、〝安保闘争〟の「挫折」をそれ以前の学生運動の「挫折」と結合させることで最高度に高まり、その後の作品にも尾を引きます。1961年末の「飼育」では大江健三郎の原作にあった素朴な連帯感まで一掃し、「天草四郎時貞」(19623)では弁証的な歴史観を無視し、島原の乱を主観的な「挫折」のイメージ一色にぬりつぶして、もう一度くらやみの戦略・戦術論争を再現しました。最近日本生命のPR映画としてつくった「小さな冒険旅行」が、童心の世界にまで疎外と断絶のイメージをもちこんでいることは気づかれた人も多いと思います。

(つづく)

2013年3月11日月曜日


追悼 映画評論家、山田和夫氏の主要映画評を紹介します。

「アカハタ」1963624日付から

映画 新安保条約から3年 「日本の夜と霧」に代表される断絶と否定の論理②

 さて、「死者をむくむおびただしい犠牲にもかかわらず、〝安保〟はやはり通過してしまった―620日以降、国会をおおうデモの波は急速に退潮してしまった」―国会周辺の、それもその年の5、6月という高揚期にだけ闘争に参加した人びとの目には、まるで運動が全面的に敗退したようにうつりました。一時的な興奮が大きく、それに没入した印象がつよかっただけに、その逆作用もまた急激でした。いまにも革命がおきそうな気がした気分の高ぶりから、闘争全体が壊滅してしまったかのような沈滞感へ。

そういう一部の心的状況を利用して、「安保闘争の敗北は前衛党の責任」というトロツキストや反党修正主義者たちの意識的な悪扇動がおこなわれ、さまざまな芸術作品にその影響があらわれました。

〝挫折〟ひきだした知識人の孤立感


 映画作品でその代表的なものは、さきにあげた大島渚の「日本の夜と霧」です。

「日本の夜と霧」は、文字通り〝夜と霧〟にとざされたある結婚式場を舞台にドラマを展開します。〝安保闘争〟から挫折を引き出した知識人の孤立感をあらわすように、ドラマの世界自体が周囲の現実から切りはなさされ、まるで演劇のようなワクにおしこめられます。1960615日をきっかけに結ばれた一組の男女。男はかつての学生運動の経験者であり、女は安保デモで傷ついた現役の学生です。当然のことですが、学生運動の二つの世代を代表する友人たちが一堂に会します。安保デモで逮捕状の出ている新婦の友人が会場に姿をあらわし、世代間の断絶、同一世代の対立がつぎつぎとむき出しにされ、お互いの過去を暴露し合う、はげしい討論のドラマが展開されるのです。

 現実の舞台は孤立したせまいわくに限定され、観念だけが過去にとび、現在にもどります。極左冒険時代の学生運動、非人間的なスパイの追及。そして一転した戦術方針。そのなかで苦悩し、挫折した人間像と、人間的責任とは無縁な「前衛」の行動。「真の統一と団結に到達するためには、われわれはもっと深くお互いの傷を見せ合わなければいけない」というもっともらしい大義名分のもとに、孤立した舞台にあつまる一群の人びとの間にさえ、なんの人間的なつながりもないことがしつように強調されます。望遠レンズをつかい、ただ発言する個々人だけを他から切りはなして追うカメラ手法。615の国会前すら、まっ暗やみの観念の過去にうかぶ一人ひとりバラバラの姿としてとらえる作家の目。

 それらはいずれも〝安保闘争〟を国会周辺、学生と知識人、19606月あるいは615のたたかいだけのせまい経験と実感にわい小化する姿勢の反映です。

 いわゆる「全学連」指導部の一人太田は、先輩たちが「前衛党」のいいなりになった不がいなさをののしり、先輩たちは同世代の「前衛」―中山や野沢たちの責任を追及します。その中山や野沢たちがもっとも軽薄であり、非人間的なタイプとしてえがかれているのです。そして、「現在必要なことは、中山さんたちを徹底的に破壊し、新しい前衛をつくることだ」とさけぶ太田が私服刑事に逮捕され、救援に走ろうとする学生たちをとどめた中山の空虚な「統一と団結」演説が霧のなかを流れ、ラストになるのです。
(つづく)

2013年3月9日土曜日


追悼 映画評論家、山田和夫氏の主要映画評を紹介します。

新聞「アカハタ」1963624日付から


映画 

新安保条約から3年 「日本の夜と霧」に代表される断絶と否定の論理 ①




 ちょうど3年前の19606月、国会周辺をデモ隊がうずめ、〝安保反対〟のさけびが全国で高まっていたころ、日本の映画作家たちたとえば大島渚は第2作「青春残酷物語」(63日封切)を発表し、黒澤明は黒沢プロの第1作「悪い奴ほどよく眠る」と取りくんでいました。新藤兼人が自費を投じた自主作品「裸の島」の完成を急ぎ、山本薩夫が関西の労働者、市民、学生にささえられて「武器なき闘い」の撮影をつづけていたのも、同じころです。

 そして大島の「青春残酷物語」はいわゆる〝松竹ヌーベルバーグ〟の口火となり、吉田喜重の「ろくでなし」、篠田正浩の「乾いた湖」、田村孟の「悪人志願」などがつづき、大島自身「太陽の墓場」(8月6日封切)を経て「日本の夜と霧」(10月9日封切)にたどりつきます。とくに「日本の夜と霧」は〝安保闘争〟を直接の契機としてつくられた数少ない作品として、封切前から〝マスコミ〟にさわがれていましたが、浅沼社会党委員長暗殺の翌日、わずか4日間の公開で上映を中止され、いま3年ぶりに一般公開されています。



闘争の沈滞感につけこむ意識的な悪扇動




 1960年6月20日午前零時、日米安保条約はただ物理的な時間の経過によって〝自然成立〟しました。その瞬間、国会周辺にいつまでも立ちつづけていた国民の間から「われわれは安保を認めない」と怒りのシュプレヒコールがさけばれ、その声が夏の夜空にこだましました。その怒りは全国の労働者、市民、学生すべてのものとして、今日までのたたかいのなかにうけつがれています。

 私たちはいま、地域で職場で〝米原子力潜水艦「寄港」反対〟のたたかいをますますつよめています。私たちにとっては、〝安保〟は3年前に終わったたたかいでもなければ、〝自然成立〟で終止符をうたれた敗戦でもありません。それどころか、〝米原子力潜水艦「寄港」反対〟のたたかいこそ、〝安保〟そのものが生み出した日本の核戦争基地化とのたたかいですし、そのたたかいをはげまし、私たちに確信をあたえてくれるのは、3年前あのたたかいがアイゼンハワーの来日を阻止し、岸内閣を倒して、帝国主義者たちの戦争計画に大きな打撃をあたえたという事実です。

 しかし、一方では〝安保〟のたたかいに結集された大きな人民の力―これを弱め、切りくずし、分裂させようとする必死の思想・文化攻勢がおこなわれています。19611月のケネディ大統領就任、同3月のライシャワー駐日大使任命は、いわゆる〝ケネディ=ライシャワー路線〟のはじまりでした。かれらの好餌(こうじ)となったのは、とくに一部の知識人をとらえた〝安保闘争〟の挫折(ざせつ)感でした。
(つづく)