2013年3月9日土曜日


追悼 映画評論家、山田和夫氏の主要映画評を紹介します。

新聞「アカハタ」1963624日付から


映画 

新安保条約から3年 「日本の夜と霧」に代表される断絶と否定の論理 ①




 ちょうど3年前の19606月、国会周辺をデモ隊がうずめ、〝安保反対〟のさけびが全国で高まっていたころ、日本の映画作家たちたとえば大島渚は第2作「青春残酷物語」(63日封切)を発表し、黒澤明は黒沢プロの第1作「悪い奴ほどよく眠る」と取りくんでいました。新藤兼人が自費を投じた自主作品「裸の島」の完成を急ぎ、山本薩夫が関西の労働者、市民、学生にささえられて「武器なき闘い」の撮影をつづけていたのも、同じころです。

 そして大島の「青春残酷物語」はいわゆる〝松竹ヌーベルバーグ〟の口火となり、吉田喜重の「ろくでなし」、篠田正浩の「乾いた湖」、田村孟の「悪人志願」などがつづき、大島自身「太陽の墓場」(8月6日封切)を経て「日本の夜と霧」(10月9日封切)にたどりつきます。とくに「日本の夜と霧」は〝安保闘争〟を直接の契機としてつくられた数少ない作品として、封切前から〝マスコミ〟にさわがれていましたが、浅沼社会党委員長暗殺の翌日、わずか4日間の公開で上映を中止され、いま3年ぶりに一般公開されています。



闘争の沈滞感につけこむ意識的な悪扇動




 1960年6月20日午前零時、日米安保条約はただ物理的な時間の経過によって〝自然成立〟しました。その瞬間、国会周辺にいつまでも立ちつづけていた国民の間から「われわれは安保を認めない」と怒りのシュプレヒコールがさけばれ、その声が夏の夜空にこだましました。その怒りは全国の労働者、市民、学生すべてのものとして、今日までのたたかいのなかにうけつがれています。

 私たちはいま、地域で職場で〝米原子力潜水艦「寄港」反対〟のたたかいをますますつよめています。私たちにとっては、〝安保〟は3年前に終わったたたかいでもなければ、〝自然成立〟で終止符をうたれた敗戦でもありません。それどころか、〝米原子力潜水艦「寄港」反対〟のたたかいこそ、〝安保〟そのものが生み出した日本の核戦争基地化とのたたかいですし、そのたたかいをはげまし、私たちに確信をあたえてくれるのは、3年前あのたたかいがアイゼンハワーの来日を阻止し、岸内閣を倒して、帝国主義者たちの戦争計画に大きな打撃をあたえたという事実です。

 しかし、一方では〝安保〟のたたかいに結集された大きな人民の力―これを弱め、切りくずし、分裂させようとする必死の思想・文化攻勢がおこなわれています。19611月のケネディ大統領就任、同3月のライシャワー駐日大使任命は、いわゆる〝ケネディ=ライシャワー路線〟のはじまりでした。かれらの好餌(こうじ)となったのは、とくに一部の知識人をとらえた〝安保闘争〟の挫折(ざせつ)感でした。
(つづく)

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