2011年5月11日水曜日

ドラマ「見知らぬわが町」は想像以上のできです


写真は数年前に三池労組が解散にあたって三池闘争の写真集を出しています。その一枚。当時の熱気が伝わります。

2011年5月9日月曜日

ドラマ「見知らぬわが町」と組合歌「炭掘る仲間」

 ドラマの中で歌われるこの歌は、本来労働者が仲間とスクラムを組んで歌う合唱曲です。ドラマでは鎮魂歌として使われました。主人公の祖父が戦後三池炭鉱でどんな生き方をしていたかが偲ばれる場面でした。
では「炭掘る仲間」とはどんな歌でしょうか。

「炭掘る仲間」作曲/小林秀雄 作曲/三鉱創作グループ
 
みんな仲間だ炭掘る仲間
ロープ伸びきるまおろし切り羽
未来の壁にたくましく
このつるはしを打ち込もう

みんな仲間だ炭掘る仲間
闘い進めた俺たちの
闇をつらぬく歌声が
おい聞こえるぞ地底から

みんな仲間だ炭掘る仲間
つらい時には手を取り合おう
家族ぐるみの後押しが
明るい明日を呼んでいる

みんな仲間だ働く仲間
煙る三池の縦横結ぶ
旗に平和としあわせを
三池炭鉱労働者
三池炭鉱労働者

 三池炭鉱労働組合(三鉱)は、1956年(昭和31年)に組合歌歌詞を公募し最終的には集団創作となって世に出ました。当時三池製作所の工員だった労働者作曲家荒木栄さんも参加したそうです。故荒木栄については港健二郎さんが映画「ひだるか」にしていますのでそちらもご覧になってください。
 荒木栄とは、1960年前後の三池争議中に働くものを励ます労働歌を短い間に70曲つくって38歳で夭折した労働者作曲家です。米の山病院駐車場に記念碑があります。「がんばろう」などご存知の方もいらっしゃるでしょう。

写真は万田坑の展示場に飾ってある三池炭鉱労組のレリーフで「団結、抵抗、統一」と書いてあります。

 ドラマではヒロインが犬に追われ万田坑に入って「なんばしよっとか!(何をしてるんだ)」と職員からとがめられ逃げる場面がありましたが、これはドラマ上のこと。本当は世界遺産登録を目指して整備され一般公開されています。
 入館料400円で元鉱夫の方の案内が付きます。根掘り葉掘りこちらの素性も聞かれますが、田舎ですし許してください。
 中国、韓国からも来館者があるそうです。彼らの祖父の世代は思い出すのも嫌な場所でしょう。
 三井三池は終戦間際に中国、朝鮮から人夫をかり集め強制労働をしいました。山を掘って空襲から工場を隠そうとしたのです。彼らが押し込められた馬渡社宅も今やショッピングセンターです。社宅もみんななくなってしまいました。
 世界遺産の条件として炭鉱電車の復活、三池港の整備、竪坑の安全対策とかがあるそうです。ファーストシーンはレールがなくなった炭鉱電車路線跡です。自転車は無理。私が幼少のころは釘を電車に引かせて手裏剣を作りましたね。
 このドラマの最大の功績は三池の負の遺産の発見だと思います。囚人労働から三池闘争などまさに日本資本主義激動史です。

2011年5月8日日曜日

「見知らぬわが町 」を思う 万田坑にて HD


「見知らぬわが町」5月5日全国放送ついに!
 ドラマ「見知らぬわが町」再放送をやっと見ることができました。噂以上の力作でした。三世代の家族の物語にしたこと、主役を優等生にしなかったこと、CO患者の祖父の思いをドラマの中核にしたこと、いしだあゆみを祖母役にし祖父の思いを代弁させたことなどが成功の要因だと思います。私は中盤で泣きました。
 主人公が三池炭鉱の囚人労働に関する遺物を求めて、藪の中をかき分け「倶絵一処」の石碑を発見するくだりは原作で最も感動的なところであります。囚人を社会復帰させるため尽力された佐伯シャンの碑だからです。
 祖父の葬儀で昔の組合の仲間が弔問し組合歌「炭掘る仲間」を合唱する場面では万感の思いがあふれる最も感動的な場面でした。万田坑、宮原坑、三池港などこの地方ならではの風景がドラマに生きています。フィルムライクなのでたぶん一眼デジタルで撮影されていると感じましたがこの町特有の色や夏の暑さも感じる絵作りです。ラストシーンは???ですが許しましょう。
 あえて注文をつけるならば、「福岡日報」記者が言う三池闘争50年の解説で「石炭産業がだめになって労働者がリストラされた…」は違うのです。アメリカの要請で国が石炭から石油へエネルギー政策を大転換したからです。リストラは露骨な労組つぶしで会社は労組の分断に血道をあげ指名解雇を断行したのです。争議中には会社から雇われた右翼暴力団が久保さんを殺害しています。この争議は総資本対総労働のたたかいと言われ今でも語り継がれています。
 いや三池闘争は今日に生きています。
 世界遺産登録の動きもあり注目される三池。ドラマは三池に住む人々の思いを伝えています。
 みなさん大牟田、荒尾へ三池炭鉱跡へおいでください。

2011年3月29日火曜日

福島県南相馬市原町区

3月下旬、東日本大震災で地震津波被害の現場であり福島原発から20キロ県内の福島県南相馬市原町区へ行きました。
鉄塔はなぎ倒され家屋は流されました。凄まじい津波被害です。がれきと泥が一面に広がっています。

福島原発から20〜30キロ圏内のため土砂の下の捜索が進んでいません。今日は晴天ながら乾いた冷気で時折パラパラと雪が降ります。被災地の乾いた地面からヒューと土埃が舞いました。

街中はゴーストタウン状態です。7万の人口のうち5万人が避難されたそうです。
石油も日用品、医療品、食糧も足りません。危険だとして物質が届かないのです。

正確な情報が入らず大手マスコミも近よらない、まるで陸の孤島ではないか、困った時は助け合うのが日本人の美徳ではないか、と避難せず頑張っている自治体関係者はいら立ちを隠しません。

市役所屋上で放射能を計測していた自衛隊が測定器を置きっぱなしにしていなくなったことも。どうしたことでしょうか。
情報が開示されていないのです。

そんな中、富山県南砺市は「200年前、天明の飢饉の後に富山から相馬に約7000人の移住を受け入れてもらったお返しです」と田中幹夫市長先頭にボランティアにやってきました。

大飢饉の後、人口の減少が大問題に。移住がご法度だった江戸時代、浄土真宗の宗徒が大きな役割を果たしました。

コンビニも昨日からセブンイレブンが営業再開しました。

ホーホケキョ

3月29日、飯能原市場では赤白の梅が満開です。
朝はまだ寒く、山から吹く秩父おろしで車のフロントガラスが半分凍っていました。
そんな朝、ホーホケキョとウグイスが春を告げます。

2011年3月14日月曜日

3月11日午後2時46分。強烈な地震です。

私は、3月11日、永田町参院本館1階にいました。午後3時前大きな名揺れがあり地震体感。参院決算委員会が中止になり自民党の新人女優議員が飛び出てきます。交通機関が止まりました。控え室のテレビで津波が押し寄せてくるのを見ました。家が車が押し流されていました。凄い恐怖を覚えました。
kitakaBのIさん運転でKD参院議員が被災現場へ行くので同乗させてもらうことになりました。国会泊椅子で寝ます。

12日、午前3時30分、写真のYさんと地下鉄でkitasへ。Yさん運転で集合場所のW市駅へ。6時30分着く。S、DK組で分乗。余震が続きます。関越道から4号線に。探りながら福島、仙台をめざしました。塩原のスーパーに入ると、電気、水道が止まっていました。食糧求める多くの人。
いわき市小名浜港へ着き、被害現場見ました。船が乗り上げています。片付けをしていた市民からお話を聞かせていただきました。小学校が避難場所になっています。避難している親子に話を聞きました。
福島第一原発が爆発。近くの道路を通りました。サイレンをあげて数台の緊急車両とすれ違いました。私の携帯電話は不通になり電池も切れました。
郡山市で泊まることに。
13日、福島県庁へ申し入れ。
M88からM90に変更され史上4番目の震災に訂正されました。福島原発事故拡大。

仙台市に入りました。ガソリンを求める長蛇の列。印刷工場が被災し新聞が届いていないことが判明。私が今いるビルは、電気、水、電話が大丈夫。
宮城県庁へ。トイレの水が出ません。
県知事に申し入れ。
夜がふけるが被害が大きい若林区の避難場所へ。「学校前の田んぼまで津波がきた」と、自ら被災されたかた先頭に、
JAと中学校の避難場所へ行きました。真っ暗。電気が来ていません。被害現場を見て要望を聞いて欲しいの声がおおくありました。
妻の姉さんが近くにいるが連絡が取れません。
14日、
林区被害現場へ。凄い津波のあと。一面に土砂とガレキ、海水と油に臭い。避難場所の東郷小学校へ。車が流され1階の教室にはまり込んでいました。
仙台港へ。
トヨタモーターブール、缶工場、レジャー施設がある開発地。
輸出用新車が転がり、缶が道路上に転がっていました。
港が見える高い場所へ。
左にコンビナートが燃え、右に大型船が乗り上げていました。
時計は4時5分を指したままでした。