2013年2月14日木曜日








⑤「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
    不破哲三/著    雑誌「前衛20132」より
 
「スターリン秘史」の執筆にあたって⑤

「ディミトロフ日記」との出会い②


 また、「日記」が、筆者であるディミトロフの精神的な変身の過程をおのずから描き出していることも、たいへん興味深い点の一つです。ディミトロフは、最初は、ヒトラーの政権獲得直後のドイツで、国会議事堂放火事件の共犯者として逮捕されながら、ゲーリングやゲッペルスまで相手にした法廷での熱烈な論戦で、ヒトラーらの陰謀を告発し、無罪をかちとった反ファシズムの英雄的闘士としてモスクワに迎えられ、1935年のコミンテルン第7回大会では、反ファシズム統一戦線という画期的な路線転換を実現するうえで、大きな役割を果たしました。その人物が、4年後には、活動のあちこちに共産主義者らしい善意を残しながらも、全体としてはスターリンの指示に無条件で従う官僚的な活動家に変貌してゆくのです。この過程も、スターリン専制確立の過程の重要な一側面を現わしていると思います。
 
 この「日記」を読む時には、それを書いているディミトロフの視野が一つの限界をもっていることにも、注意を向けなければなりません。スターリンは、「分割統治」という独特のシステムを自分の周囲につくりあげて、その分野でどんなに重要な人物であっても、担当分野以外の問題は知らせないという手法をとってきました。たとえば、第二次世界大戦の前夜にヒトラー・ドイツと手を結んだ時、ディミトロフらが知らされていたのは、世界に公表した相互の不侵略という表面的な内容だけでした。東欧再分割の秘密議定書の存在などは、それを知っていたのはおそらく直接タッチした一部の幹部だけで、ディミトロフなどコミンテルンの幹部はもちろん、ソ連の党・政府の指導部の大部分にも知らされなかった特別の機密事項だったと思います。ディミトロフらは、その重大な事実を知らされないまま、各国の共産党の活動を、反ファシズム統一戦線からヒトラー・ドイツとの提携路線に転換させる仕事をやらされるのです。

 そういう限界があるにせよ、「ディミトロフ日記」は、1933年から戦後に至る激動の時期をスターリンの身近で過ごし、その指揮下で国際活動の一翼をになった一人の人物が、その日々の活動を連続的に記録したものであり、他の文献に替えることのできない貴重な価値をもっています。

 私は、この「日記」の英語版をほぼ読み終えた時、この「日記」を縦糸に、その他の文献資料を横糸にして、スターリンの国際活動を研究してゆけば、スターリンの覇権主義の歴史的な実態に、かなりの程度まで迫れるのではないか、という展望をもちました。

今月から連載を開始する、「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」は、この構想にもとづき、「ディミトロフ日記」を縦糸とし、公開された内部資料を含むその他の文献も活用して、スターリンの覇権主義の形成と活動の全体像を描きだすことを意図したものです。スターリンの覇権主義の巨悪への変貌が歴然とした事実となるのは1930年代の半ば、それから1953年のスターリンの死まで20年近い歴史をたどることになりますから、私のいまの構想では、2年近い連載を予定しています。この角度からスターリン問題の解明は、共産主義運動のなかでスターリン時代がもっていた意味を根本から明らかにすることに役立つだろうし、日本の私たちにとってだけでなく、世界の共産主義運動の、科学性、道義性、発展性を持った前進にも必ず資するだろうことを強く希望するものです。

 なお、本文での「ディミトロフ日記」の引用は、英語版、ドイツ語版、フランス語版の各版を適宜利用しましたが、その都度、出典を記すことはしませんでした。「日記」の訳文は、英語版では岡田則男氏、ドイツ語版では大高節三氏にご尽力をいただき、英語、ロシア語、フランス語、中国語などのその他の文献では、党の国際委員会および社会科学研究所の諸同志に協力をいただきました。また、その他のロシア語の文献については、私の旧制一高時代からの友人で国際委員会の活動家の一人だった故大沼作人氏が残された訳業を広く利用させてもらいました。連載の開始にあたって、これらの方々に厚い感謝の言葉を述べるものです。






④「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
   不破哲三/著     雑誌「前衛20132」より

「スターリン秘史」の執筆にあたって④

「ディミトロフ日記」との出会い①

 
 コミンテルンが現実に解散の措置をとったのは19437月ですから、1941年といえば、その2年以上も前のことです。コミンテルン解散の国際情勢上の背景としては、米英ソの反ファシズム連合が形成されていた事実がよく指摘されますが、スターリンのこの発言が事実だとすると、それは、米英ソ連合どころか、ソ連を反ファシズム連合に参加させたヒトラー・ドイツのソ連攻撃(41622)もまだ始まってない時期のことになります。この時期にスターリンがコミンテルンの解散を問題にしたという事実は、私には、そこで初めて知ったことでした。ですから、いったいこの時期に、スターリンは、どういう情勢評価、どういう文脈でコミンテルン解散の計画を立てたのか、このこと自体にたいへん興味をひかれました。しかし、それ以上に私が研究意欲をかきたてられたのは、長期にわたってスターリンの身近にいた人物が、スターリンの言動を書きしるした「日記」なるものが存在して、ドイツ語にもせよ、すでに公刊されている、という事実でした。

 さっそく調べてみて、まず最初に手に入れたのは、アメリカのエール大学出版部が公刊した英語版(2003)でした。続いて入手したドイツ語版は、年代が「1933年~43年」とコミンテルンの解散まで区切られていましたが、英語版の方は「1933年~1949年」となっており、第二次大戦後、ディミトロフがブルガリアに帰国して以後の時期まで含まれています。ただ、内容は、「日記」全部の英訳ではなく、編集者が重要だと思う部分を選択して編集した抄訳版で、要所要所に編集者の解説が付けられているのが特徴です。

 「ディミトロフ日記」の原文は、19冊のノートからなっていて、まず、1997年にブルガリア語版がソフィアで発行され、その各国語約が順次発行されたようで、いま分かっているのは次の諸版です。

2000年 ドイツ語版。1933年~1943年の部分の全訳(上下2)

2002年 中国語版。桂林・広西師範大学出版部発行の「選集」。全時期にわたるが、中国関連部分に重点をおいた抄訳。

2003年 英語版。エール大学出版部の刊行。三分の一にカットされた抄訳版で解説付き。

2005年 フランス語版。全時期の全体が収録されている。

 さて、「日記」の内容ですが、まず英語版をざっと拾い読みして、驚きました。これまで秘密のベールに包まれていた多くの謎が、事実経過そのものが持つ力で、いとも簡単に解けてゆくのです。また、国際的な運動の中でよく知られた出来事で、それが起こったいきさつはこうだったとか、とはじめてその意味が分かり、腑に落ちるという問題も、随所にありました。これは、スターリンの覇権主義の歴史の研究にとって、きわめて有力な貴重な書物であることを痛感しました。

 コミンテルン書記長という、世界の共産主義運動の要をなす地位にいる人物の「日記」だとはいえ、他人に読ませるつもりのない、おそらく自分の心覚えとして書きとめたであろう日記ですから、その内容には限界があります。まず、全体は一日数行、あるいは一行の時もある短い文章が多く、そこで取り上げられている問題についての解説的なことはまったく含まれていません。しかし、時には、一行の文章のなかにディミトロフの強い感情が込めれれていて、そこから重要な情報を読み取ることができる場合もあります。また、全体として、スターリンと会った時の会話や、スターリンが内輪の会合で話した談話などは、その要点が克明に記録されています。








③「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
   不破哲三/著     雑誌「前衛20132」より


「スターリン秘史」の執筆にあたって③

「ディミトロフ日記」との出会い

 私が、ソ連の秘密文書の公開が開始された状況のなかで、何よりも期待したのは、スターリンの覇権主義の形成と巨悪化の歴史に内面からの新たな光が当てられ、その本格的な探究の道が開かれることでした。

 私は、ソ連解体のほぼ10年前の1982年、「スターリンと大国主義」を執筆しました(「赤旗」同年112日~218日に連載、同年3月、新日本新書として刊行)。この著作は、前半では、スターリンが国内の民族問題で大国主義の偏向をあらわにし、それと「生死をかけたたたかい」を宣言したレーニンの「最後のたたかい」から説き起こし、第二次世界大戦の前夜、ヒトラーとの領土分割の秘密条約(1939)が覇権主義への変質の転機を画したことを見、第二次世界大戦のあとまでその足跡をたどりました。後半では、スターリンの後継者たちの覇権主義を、日本共産党への干渉攻撃を含め、世界の共産主義運動への支配の策動、チェコスロバキアへの軍事干渉(1968)、さらに進行中のアフガニスタン侵略戦争(1979)まで、その巨悪のあとを追究しました。しかし、それは、あくまで表面に現れたソ連の公的な言動を材料にして覇権主義の足取りを追った略史の域を出ないものでした。

 ですから、私には、日本共産党への干渉史をめぐる経験から言っても、もしこの分野で関係する内部資料が公開されたら、スターリンの覇権主義の内実にせまる新しい研究が可能になることは間違いない、との強い期待が起こりました。もちろん、内部資料と言っても、スターリン時代と後継者たちとの時代とでは、その性格はかなり違っていたはずです。後継者たちのなかでは、スターリンのような個人専制主義体制を確立できたものは誰もおらず、大国主義、覇権主義の行動も、それをめぐる報告とか会議の記録とか、あれこれの公的文書がかなり詳細に残ります。しかし、ほとんど絶対的な個人専制の体制を確立したスターリンの場合には、スターリン自身の内面の考えを記録した文書は存在せず、あるものはおそらくスターリン周辺の人々の言動の記録だと推定されます。しかし、それにしても、この時代の内部資料が公開されれば、それは、疑いもなく、スターリンの覇権主義の歴史研究の新しい時代を開くものとなるでしょう。

 しかし、私のこの期待はなかなか実りませんでした。旧ソ連の内部資料を使ったソ連史研究の著作は、その後、ずいぶん刊行され、日本でもかなりのものが邦訳紹介されましたが、私の見る範囲では、そこで対象とされたのは、大量テロなどソ連の国内問題が中心で、覇権主義に焦点を当てた研究書は見当たりませんでした。対外関係を取り上げたのも、個別の条約問題などに研究を限定しているものが大部分でした。

 そういうなかでの4年ほど前のことでした。インドシナ共産党とコミンテルンの関係を取り上げた日本の研究者の著作[]を読んでいて、そのなかの一節に目をひかれました。スターリンが19414月、ボリショイ劇場での夕食会で、ディミトロフにたいしてコミンテルンの解散を促した、という事実が紹介され、その典拠として、「ディミトロフ日記」(1933年~43年ドイツ語版2000年刊)という書物が指示されていたのです。

★栗原浩英「コミンテルン・システムとインドシナ共産党」(2005年、東大出版会)
 








②「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
   不破哲三/著    雑誌「前衛20132」より

「スターリン秘史」の執筆にあたって②


スターリン時代の「50年問題」についても、私たちは、スターリンの主導で開始された無法な干渉行為の真相をはじめて本格的につかむことができました。

 私は、「干渉と内通の記録」を書きあげた時、「赤旗」連載の最終回で、次のように書きましたが、これはこの仕事をふりかえるとき、今も変わらない私の感慨となっています。

 連載を執筆しながら、私が日々に思いをあらたにしたことは、ソ連共産党指導部が、自分たちの覇権主義の野望の前にたちふさがる最大の障害として、日本共産党をいかにおそれたか、そして、日本共産党の自主独立の路線をくつがえすために、可能なあらゆる方策に訴え(巨額の秘密資金であれ、日本の反党分子の買収であれ、〝親ソ〟政党・社会党へのてこいれであれ、外国のソ連追従の共産党や国際組織の動員であれ)、その目的のためには文字どおり手段を選ばないやり方をとったことです。

 もちろん、私たちは、ソ連覇権主義とたたかうさいに、こうした作戦計画や陰謀の内面については、知るよしもありませんでした。日本共産党は、ソ連側が文章で攻撃してくれば反撃の論戦をする、内通者を使っての干渉工作をしてくればこれを正面からうちくだく、大衆運動に分裂をもちこんでくれば、その分裂策動を大衆的にも孤立させてこれをうちやぶる、国際政治のうえで侵略や干渉の誤りがおかされれば、正義と真実にもとづいて徹底した批判をする、という闘争を、正々堂々とすすめてきました。

 いまソ連共産党の内部文書をみると、私たちのこうしたたたかいの一つひとつが、干渉者たちのもっとも痛いところをつき、彼らを追い詰めて、干渉作戦を挫折や破綻に追いこむ力を発揮してきたことが、よく分かります。

当時、世界最大の社会主義国であることを誇っていたソ連共産党の指導部が、その権力と資金力をどのようにつぎこんでも、日本共産党の確固とした自主独立路線をくつがえすことはできず、逆にソ連覇権主義の墓穴を掘る結果となったのです。(同書・下384ページ)

 私がうけた印象として、もう一点つけ加えれば、それは、干渉工作の実行にあたったソ連共産党のすべての関係者が、世界の共産主義運動の「公認」の諸原則を真っ向から踏みにじる自分たちの悪業を、何の痛みも感じることなく、日常の業務として実行していること、そして、そのあからさまな経過を公式の文書で党指導部に平然と報告している姿でした。この世界では、「マルクス・レーニン主義」とか「共産主義の大義」などを決まり文句として口にするとしても、これは表舞台だけで通用する建前にすぎず、実際の行動を支配するのはソ連覇権主義の利害であり、「マルクス主義」も「レーニン主義」も「共産主義」も問題にはならないのです。社会主義・共産主義の事業とは無縁なこの体制は、明らかにスターリン時代につくりあげられ、後継者たちによって、自分なりの部分的修正を加えながらも、受け継がれてきたものでした。

2013年2月13日水曜日


①「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
    不破哲三/著   雑誌「前衛20132」より

 
「スターリン秘史」の執筆にあたって①

旧ソ連の秘密文書と「干渉と内通の記録」


 
1991年のソ連共産党の解体、それに続くソ連政治体制の崩壊後、旧ソ連の党や政府の内部文書の流出が始まりました。このことは、ソ連史の研究に、まったく新しい状況をつくりだしました。それまでは、ソ連史を分析するには、多くの場合、スターリンやその後継者などソ連の党・政府指導部の公的な言動から推論することが主要な方法とならざるをえなかったのですが、流出が始まった内部文書は、彼らがそれらの行動をどんな意図でもくろみ、どんな準備過程を経て実行に移したかなど、ソ連指導部の内面から探求することを可能にしたのです。これは、私たち日本共産党が、多年にわたってたたかってきたソ連覇権主義の実態を究明するうえでも、絶大な条件をつくりだすはずのものでした。

私がその意義を痛感したのは、「日本共産党にたいする干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から」(1993年)を執筆した時でした。

ことの始まりは、ソ連崩壊から一年ほど経った時期に、一部の週刊誌が、入手した流出資料を材料に、ある戦前の事件(★)を持ちだして、日本共産党への攻撃を企てたことでした。取り上げられた問題は、私たちには〝寝耳に水〟の話でした。私たちは即座の対応はせず、当事者の調査をおこなうとともに、モスクワに代表を送って、関係資料を手に入れ、この二重の調査で確かめられた事実にもとづいて、党中央委員会の責任で戦前のこの事件にたいする厳正な処置を決定しました。

 
  ある戦前の事件 野坂参三が、コミンテルンで活動していた時期に、ともに活動していた日本共産党の幹部・山本懸蔵について、日本の警察のスパイだという偽りの密告をした事件。党は、週刊誌が入手したソ連側資料も調査して、本人もその事実を認めたので、野坂を党から除名した。

 
この種の党攻撃は、その後も繰り返されたので、私たちは、モスクワでの関係資料の探求活動を続け、日本共産党や日本の政治にかかわる膨大な資料を入手することに成功しました。

こうして集まった資料は、旧ソ連のさまざまな関係機関から未整理のまま出てきたもので、最初見た時は、時間的な順序もその出所もはっきりしない、まったく雑然とした文書の堆積でした。しかし、時間をかけてそれを読み、関連をたどりながら意味を読み解いてゆくと、そこには、私たちが1960年代から70年代にかけてたたかい打ち破ってきた、フルシチョフ=ブレジネフ指導部の干渉作戦の全貌が、干渉の当事者たち自身の生の言葉で、くっきりと浮かび上がってきたのです。

この干渉作戦の目的や性格は、私たちが告発してきた通りのものでしたが、ソ連の党指導部がこの作戦を準備し実行したやり方は、私たちが想定した以上に大規模な、そして悪質で汚いもので、社会主義の大義などひとかけらもないソ連覇権主義者の醜い姿をさらけだしたものでした。

私は、ソ連は崩壊したとはいえ、ソ連覇権主義のこの害悪をきちんと歴史に記録することは、これとたたかってきた私たちの日本と世界にたいする責任だと考え、「日本共産党にたいする干渉と内通の記録」の執筆にとり取りかかりました。書いたものは「赤旗」に連載し、1993110日から616日まで、5カ月あまりの長期連載となりました。そしてこの連載は、同年9月、上下2巻の著作として公刊しました。(新日本出版社) 。

ここで執筆の内幕をひとつ紹介しておきますと、この年は6月から東京都議選が予定されていました。旧ソ連資料を利用しての党攻撃が、政治的思惑も絡んで選挙戦の直前まで続きましたので、それへの反撃の材料として、連載を都議選の告示前に完了することが、私にとっての至上命令だったのです。ところが、途中で連載完了に必要な日数を計算してみると、どうしても日数が足りません。選挙の告示は待ってくれませんから、計算の合わないところは連載のやり方で合わせるしかないということになり、終わりの頃には(9部と第10)2日分あるいは3日分を一挙に連載するなど、日刊新聞としては非常識なことを十数回も繰り返しました。そのため、連載日数は5カ月ほどですが、連載回数はその日数を大きく超える165回になったのでした。

秘密文書に接して、私たちがはじめて知った事実はほとんど無数にありました。ごく主だったものとして、次の諸点があげられるでしょう。

イ、反党分派の中心人物である志賀義雄のソ連党指導部への内通は、1960年に始まっていた。

ロ、1962年に日本政府との文化協定交渉を名目に来日したソ連の公式代表団は、実態は干渉を準備し内通者を組織するための工作者集団で、それ以後、干渉作戦の準備は、東京のソ連大使館を指揮所として進められ、志賀、神山茂夫らの内通関係も系統だったものになった。

ハ、国際問題についての日本共産党の立場を本格的に解明した196310月の7中総(8回大会)のさいには、志賀は事前にソ連大使館との打ち合わせを重ね、事後にはソ連の党指導部に「通報」を送って、今後のいっそう緊密な指導と援助を要請していた。

ニ、志賀は、7中総の開催前に分派活動のための「物質的援助」をソ連側に要請し、19642月から大量の資金提供が始まって、5月の志賀の〝旗揚げ〟の準備が秘密裏にすすめられた。

ホ、196410月、ソ連共産党の責任者がフルシチョフからブレジネフに交替したあと、干渉作戦はいよいよ露骨なものとなり、6510月の参院選東京選挙区での共産党への対立候補擁立、各派の反党分子の総結集などは、すべてブレジネフ指導部の筋書きにそって実行されたものだった。