2013年2月14日木曜日








③「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
   不破哲三/著     雑誌「前衛20132」より


「スターリン秘史」の執筆にあたって③

「ディミトロフ日記」との出会い

 私が、ソ連の秘密文書の公開が開始された状況のなかで、何よりも期待したのは、スターリンの覇権主義の形成と巨悪化の歴史に内面からの新たな光が当てられ、その本格的な探究の道が開かれることでした。

 私は、ソ連解体のほぼ10年前の1982年、「スターリンと大国主義」を執筆しました(「赤旗」同年112日~218日に連載、同年3月、新日本新書として刊行)。この著作は、前半では、スターリンが国内の民族問題で大国主義の偏向をあらわにし、それと「生死をかけたたたかい」を宣言したレーニンの「最後のたたかい」から説き起こし、第二次世界大戦の前夜、ヒトラーとの領土分割の秘密条約(1939)が覇権主義への変質の転機を画したことを見、第二次世界大戦のあとまでその足跡をたどりました。後半では、スターリンの後継者たちの覇権主義を、日本共産党への干渉攻撃を含め、世界の共産主義運動への支配の策動、チェコスロバキアへの軍事干渉(1968)、さらに進行中のアフガニスタン侵略戦争(1979)まで、その巨悪のあとを追究しました。しかし、それは、あくまで表面に現れたソ連の公的な言動を材料にして覇権主義の足取りを追った略史の域を出ないものでした。

 ですから、私には、日本共産党への干渉史をめぐる経験から言っても、もしこの分野で関係する内部資料が公開されたら、スターリンの覇権主義の内実にせまる新しい研究が可能になることは間違いない、との強い期待が起こりました。もちろん、内部資料と言っても、スターリン時代と後継者たちとの時代とでは、その性格はかなり違っていたはずです。後継者たちのなかでは、スターリンのような個人専制主義体制を確立できたものは誰もおらず、大国主義、覇権主義の行動も、それをめぐる報告とか会議の記録とか、あれこれの公的文書がかなり詳細に残ります。しかし、ほとんど絶対的な個人専制の体制を確立したスターリンの場合には、スターリン自身の内面の考えを記録した文書は存在せず、あるものはおそらくスターリン周辺の人々の言動の記録だと推定されます。しかし、それにしても、この時代の内部資料が公開されれば、それは、疑いもなく、スターリンの覇権主義の歴史研究の新しい時代を開くものとなるでしょう。

 しかし、私のこの期待はなかなか実りませんでした。旧ソ連の内部資料を使ったソ連史研究の著作は、その後、ずいぶん刊行され、日本でもかなりのものが邦訳紹介されましたが、私の見る範囲では、そこで対象とされたのは、大量テロなどソ連の国内問題が中心で、覇権主義に焦点を当てた研究書は見当たりませんでした。対外関係を取り上げたのも、個別の条約問題などに研究を限定しているものが大部分でした。

 そういうなかでの4年ほど前のことでした。インドシナ共産党とコミンテルンの関係を取り上げた日本の研究者の著作[]を読んでいて、そのなかの一節に目をひかれました。スターリンが19414月、ボリショイ劇場での夕食会で、ディミトロフにたいしてコミンテルンの解散を促した、という事実が紹介され、その典拠として、「ディミトロフ日記」(1933年~43年ドイツ語版2000年刊)という書物が指示されていたのです。

★栗原浩英「コミンテルン・システムとインドシナ共産党」(2005年、東大出版会)
 

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