2013年2月13日水曜日


①「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
    不破哲三/著   雑誌「前衛20132」より

 
「スターリン秘史」の執筆にあたって①

旧ソ連の秘密文書と「干渉と内通の記録」


 
1991年のソ連共産党の解体、それに続くソ連政治体制の崩壊後、旧ソ連の党や政府の内部文書の流出が始まりました。このことは、ソ連史の研究に、まったく新しい状況をつくりだしました。それまでは、ソ連史を分析するには、多くの場合、スターリンやその後継者などソ連の党・政府指導部の公的な言動から推論することが主要な方法とならざるをえなかったのですが、流出が始まった内部文書は、彼らがそれらの行動をどんな意図でもくろみ、どんな準備過程を経て実行に移したかなど、ソ連指導部の内面から探求することを可能にしたのです。これは、私たち日本共産党が、多年にわたってたたかってきたソ連覇権主義の実態を究明するうえでも、絶大な条件をつくりだすはずのものでした。

私がその意義を痛感したのは、「日本共産党にたいする干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から」(1993年)を執筆した時でした。

ことの始まりは、ソ連崩壊から一年ほど経った時期に、一部の週刊誌が、入手した流出資料を材料に、ある戦前の事件(★)を持ちだして、日本共産党への攻撃を企てたことでした。取り上げられた問題は、私たちには〝寝耳に水〟の話でした。私たちは即座の対応はせず、当事者の調査をおこなうとともに、モスクワに代表を送って、関係資料を手に入れ、この二重の調査で確かめられた事実にもとづいて、党中央委員会の責任で戦前のこの事件にたいする厳正な処置を決定しました。

 
  ある戦前の事件 野坂参三が、コミンテルンで活動していた時期に、ともに活動していた日本共産党の幹部・山本懸蔵について、日本の警察のスパイだという偽りの密告をした事件。党は、週刊誌が入手したソ連側資料も調査して、本人もその事実を認めたので、野坂を党から除名した。

 
この種の党攻撃は、その後も繰り返されたので、私たちは、モスクワでの関係資料の探求活動を続け、日本共産党や日本の政治にかかわる膨大な資料を入手することに成功しました。

こうして集まった資料は、旧ソ連のさまざまな関係機関から未整理のまま出てきたもので、最初見た時は、時間的な順序もその出所もはっきりしない、まったく雑然とした文書の堆積でした。しかし、時間をかけてそれを読み、関連をたどりながら意味を読み解いてゆくと、そこには、私たちが1960年代から70年代にかけてたたかい打ち破ってきた、フルシチョフ=ブレジネフ指導部の干渉作戦の全貌が、干渉の当事者たち自身の生の言葉で、くっきりと浮かび上がってきたのです。

この干渉作戦の目的や性格は、私たちが告発してきた通りのものでしたが、ソ連の党指導部がこの作戦を準備し実行したやり方は、私たちが想定した以上に大規模な、そして悪質で汚いもので、社会主義の大義などひとかけらもないソ連覇権主義者の醜い姿をさらけだしたものでした。

私は、ソ連は崩壊したとはいえ、ソ連覇権主義のこの害悪をきちんと歴史に記録することは、これとたたかってきた私たちの日本と世界にたいする責任だと考え、「日本共産党にたいする干渉と内通の記録」の執筆にとり取りかかりました。書いたものは「赤旗」に連載し、1993110日から616日まで、5カ月あまりの長期連載となりました。そしてこの連載は、同年9月、上下2巻の著作として公刊しました。(新日本出版社) 。

ここで執筆の内幕をひとつ紹介しておきますと、この年は6月から東京都議選が予定されていました。旧ソ連資料を利用しての党攻撃が、政治的思惑も絡んで選挙戦の直前まで続きましたので、それへの反撃の材料として、連載を都議選の告示前に完了することが、私にとっての至上命令だったのです。ところが、途中で連載完了に必要な日数を計算してみると、どうしても日数が足りません。選挙の告示は待ってくれませんから、計算の合わないところは連載のやり方で合わせるしかないということになり、終わりの頃には(9部と第10)2日分あるいは3日分を一挙に連載するなど、日刊新聞としては非常識なことを十数回も繰り返しました。そのため、連載日数は5カ月ほどですが、連載回数はその日数を大きく超える165回になったのでした。

秘密文書に接して、私たちがはじめて知った事実はほとんど無数にありました。ごく主だったものとして、次の諸点があげられるでしょう。

イ、反党分派の中心人物である志賀義雄のソ連党指導部への内通は、1960年に始まっていた。

ロ、1962年に日本政府との文化協定交渉を名目に来日したソ連の公式代表団は、実態は干渉を準備し内通者を組織するための工作者集団で、それ以後、干渉作戦の準備は、東京のソ連大使館を指揮所として進められ、志賀、神山茂夫らの内通関係も系統だったものになった。

ハ、国際問題についての日本共産党の立場を本格的に解明した196310月の7中総(8回大会)のさいには、志賀は事前にソ連大使館との打ち合わせを重ね、事後にはソ連の党指導部に「通報」を送って、今後のいっそう緊密な指導と援助を要請していた。

ニ、志賀は、7中総の開催前に分派活動のための「物質的援助」をソ連側に要請し、19642月から大量の資金提供が始まって、5月の志賀の〝旗揚げ〟の準備が秘密裏にすすめられた。

ホ、196410月、ソ連共産党の責任者がフルシチョフからブレジネフに交替したあと、干渉作戦はいよいよ露骨なものとなり、6510月の参院選東京選挙区での共産党への対立候補擁立、各派の反党分子の総結集などは、すべてブレジネフ指導部の筋書きにそって実行されたものだった。

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