「スターリン秘史」 ―巨悪の真相に迫る
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『前衛』新連載 不破社研所長に聞く
――スターリンの本体の見極めが大事なんですね。その観点で、コミンテルン(当時の共産党の国際組織)第7回大会(1935年7~8月)の見方も変わってきますか。
人民戦線時代にソ連では大弾圧が
不破 新しい側面が見えてきますね。スターリンは、ヒトラー・ドイツという相手に直面して、当面、反ファシズムの戦線を築こうとします。ディミトロフをソ連に迎えたのも、反ファシズムの旗を掲げる闘争の先頭に立つのに、うってつけの人物だったからでした。そのディミトロフを励まし、その知恵と経験を大いに発揮させて、世界が求めていた人民戦線戦術を打ち出した。そういう意味では、第7回大会が運動の大転換をやった輝かしい大会だったことは、間違いありません。
そして、選挙で人民戦線政府ができたフランス、人民戦線の政府への右派の反乱で内戦に突入したスペイン、日本帝国主義の侵略を前に抗日統一戦線が焦眉の課題となった中国、この三つの国が、大会方針を実践する最大の重要な舞台となりました。
これがスターリンの歴史でどんな時期にあたるかというと、ソ連の国内で「大テロル」が始まり拡大する時期なんです。「大テロル」の直接の根拠とされたのは、ソ連の政治局員キーロフの暗殺(34年12月)ですが、まさに第7回大会の準備中に起きた事件でした。誰が考えても、この暗殺の受益者はスターリン以外にない。しかも、彼は、事件が起きるとすぐ弾圧体制と偽りのシナリオづくりにとりかかります。そして、第7回大会が開かれ、人民戦線の世界的な展開が問題になる同じ時期に、スターリンは、ソ連で大量弾圧作戦に取り組んでいました。
池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』に、「人間というものは、いいことをやりながら悪いことをやる」という有名なせりふがありますが、スターリンの場合、世界ではいいことをやりながら、国内では悪いことをやった、というわけにはゆかないのですね。
実は、コミンテルンの第7回大会で、スターリンは、コミンテルンのどんな決定もスターリンの承認なしには実行されない、という仕組みをつくっていました。その仕組みを活用して、スターリンは、フランス、スペイン、中国の運動に介入しますが、それが全部、表向きは革命の言葉で語られているが、中身はソ連の大国主義的思惑、そういうことが早くも露骨に出てきました。
たとえば、スペインの内戦でスターリンが何をやったかは、ヘミングウェイの有名な小説『誰がために鐘は鳴る』(1940年)にもかなりリアルに描かれていますよ。
覇権主義の行動を表向きは革命の言葉で
――ヒトラー政権とスターリンとの関係にも歴史の謎を解く光があてられるようですね。
不破 人民戦線に続く時期、1939年に、スターリンは反ファシズムからヒトラーとの事実上の同盟政策に大転換をします。ヨーロッパで戦争が迫った前夜に、突然、ドイツとソ連が握手し不可侵条約を締結したので、世界はびっくりしました。しかも、スターリンは、この大転換を、党にも政府にも事前の相談を何一つしないで、完全にスターリン個人の独断でやってのけるのです。こんなことができるようになったのは、「大テロル」を経て、スターリン専制の体制が出来上がったからなんですね。同時に締結した東ヨーロッパ再分割の秘密条約は、指導部でもごく一部の者しか最後まで知らなかったのではないでしょうか。
こういう完全な個人専制の体制は、スターリン時代に特有のものです。後継者たちは、覇権主義は引き継ぎましたが、スターリンほどの力はないから、個人専制の体制までは引き継げなかった。だから、どんな覇権主義の悪業も、報告や会議の記録として残るのです。その結果、日本共産党への干渉史は相当なところまで秘密文書から再現できました。スターリンの場合は、誰とも相談する必要がないから、そんな生の記録は少ないのです。そこにスターリン研究の苦労のしどころがあります。それだけに、ディミトロフのように、スターリンとの日常の対話を『日記』に記録した人物がいたということは、たいへんありがたいわけですよ。
スターリンの領土拡張欲にヒトラーがつけこむ
不破 39年の条約をめぐる重要な資料に、独ソ交渉の経過を記録したドイツ側の外交文書集があります。戦後、アメリカがドイツの一部を占領した時に手に入れ、冷戦の始まりの時期に、ソ連はナチスとこんな取引をしていたんだぞということで、公表したのです。日本語訳も『大戦の秘録』(読売新聞社)があり、若い頃古本屋の店先で見つけました。その時は全部が真実とは思えず、一方的資料として読んだのですが、これは間違いない真実の記録でしたね。
この中には、40年11月にヒトラーが世界再分割の新条約をソ連に提案した話まで詳しく出ています。今年の党創立90周年の記念講演(7月18日)であらましを紹介しましたが、これは、ヒトラーの大謀略でした。ヒトラーは、40年夏、イギリス本土攻略はだめだと、対ソ連攻撃に方向転換するのです。そのためには独ソ国境からバルカン方面まで大軍を配置しないといけないが、それを隠す“煙幕”が必要でした。ヒトラーは39年以来の交渉で、スターリンの領土欲の強さをいやというほど知っていましたから、そこに付け込んで、イギリスを撃滅した後、日独伊とソ連で世界を分割し、それぞれの「生存権」を確保しようじゃないかともちかけたのです。スターリンはその話に乗って受諾の回答をしました。その結果、ヒトラーは、「イギリス作戦のためだ」として平気でバルカンにドイツ軍を進出させました。
コミンテルン解散の話も、その過程でスターリンが言いだしたことなんです。世界分割の大同盟となると、いくらなんでもコミンテルンの運動とは両立しませんからね。それが1941年4月、ヒトラーのソ連攻撃の2カ月前の話ですよ。ヒトラーがどうしてソ連をあれほど見事に不意打ちできたのかは、歴史家のあいだでも議論がいろいろありますが、答えはそこにあったんですね。
連合国の中で領土拡大を要求した唯一の国
不破 ドイツの攻撃を受けると、スターリンは反ファシズムの旗を再び取り上げますが、そのなかでも領土拡張の大国主義は止まりません。1945年2月のヤルタ会談で、アメリカのルーズベルトから対日戦への参加を求められた時、日本の千島列島から旧ロシアが中国にもっていた権益の回復まで要求したのは、その典型でした。おそらくスターリンは、これで東と西にツァーリズムの時代以上の領土を手に入れて、ロシア史上最大の大帝国をつくったと、覇権主義の成果を大いに自賛したのでしょうね。
戦後も、スターリンが死ぬまでの8年間に、その覇権主義はたくさんの問題を引き起こしました。日本に直接かかわる問題でも、「50年問題」や朝鮮戦争の問題があります。これらも、秘密文書を活用した新しい文脈で見ると、より深い真相が浮かんでくるのでは、と感じています。スターリンはこの干渉で、日本に武装闘争を持ちこもうとしたのですが、なぜそんな企てに出たか、まだそこまでは解明されていないのです。発達した資本主義国で、しかもアメリカの軍事占領下にある日本で、そんな方針は見込みがないに決まっています。それをなぜスターリンがあえて強行したのか。独立したばかりのインドにも、同じようなことがやられましたが、このあたりも今度の研究で掘り下げたい謎解きの一つです。
科学的社会主義の立場から真実を明らかにする
――今度の「スターリン秘史」にもりこまれる研究の現代的な意義はどこにありますか。
不破 『ディミトロフ日記』をはじめこれだけ資料が公開されているのに、共産主義運動の本来の立場から研究されていないというのは、科学的社会主義の立場に立つものにとって、重大な欠落なんです。しかも、内外の多くの研究書が、大国主義、覇権主義という角度からはほとんど興味を示していません。
わが党は、世界の運動の中で、ソ連覇権主義との闘争の先頭に立ち、それをやり抜いた党として、抜群の地位を持っています。それだけに、世界で最初に社会主義への道に踏み出したソ連で、レーニンの後継者を装って、スターリンがソ連を社会主義とは無縁の国に変質させ、覇権主義者として世界に流してきた害悪を歴史的事実そのものに照らして全面的に解明する、これは、社会主義・共産主義の事業の今後の発展のために、どうしてもやらなければならない仕事だし、わが党に課せられている重大な任務だと考えています。いまやれることは限られていますが、今回の連載がその第一歩となることを願っています。研究が進めば、世界の現代史の見方も多くの点で変わってきますよ。
(おわり)
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