「スターリン秘史」 ―巨悪の真相に迫る
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『前衛』新連載 不破社研所長に聞く
『前衛』2013年2月号から、不破哲三社会科学研究所所長による長期連載「スターリン秘史」が始まります。不破さんは「しんぶん赤旗」連載の『スターリンと大国主義』(1982年)以来、スターリンの専制主義、覇権主義の問題を長年研究してきました。新連載の特徴や魅力について不破さんに聞きました。
(聞き手・山沢猛、若林明)
――今回の「スターリン秘史」が、全体としてどういう内容になるか、いままでの研究とのかかわりで話してください。
『スターリンと大国主義』から30年、ディミトロフの日記に至るまで
不破 私が『スターリンと大国主義』を「赤旗」連載で書いてから、30年ほどになります。スターリン研究の書は日本でも世界でもずいぶん出ているんですが、大国主義という角度から系統的に見るというものはないのですね。それであの連載を書いたのです。9年後(91年)にソ連が崩壊し、「クレムリンの金庫」があいて、ソ連時代の秘密文書が大量に出回りだした。それを一部のマスコミが日本共産党攻撃に使い出したので、私たちもモスクワで関連の文書を集めたのですが、読んでみて驚きました。私たちがたたかってきたソ連の日本共産党攻撃作戦の内情が、彼ら自身の言葉で書かれているじゃないですか。これは、非公開でしまっておくわけにはゆかないと思って、また「赤旗」に連載したのが『日本共産党に対する干渉と内通の記録』(1993年)でした。
その時、こうして表に出てくる秘密文書から、スターリンの大国主義を追究したら、もっと深い歴史の真相がわかるはずだと考えました。しかし、その後、秘密文書を使ったスターリン時代の研究はいろいろ出るのですが、大体は「大テロル」とかソ連の国内問題の研究で、大国主義、覇権主義という方面に目を向けたものはほとんどないのです。
そんな中、おととしのことですが、インドシナ共産党の歴史についてのある日本人研究者の本を読んでいたら、スターリンが1941年にコミンテルン(当時の共産党の国際組織)の解散をその書記長ディミトロフに指示したという一節があった。コミンテルンの解散は1943年、ソ連も含めた世界大戦の真っ最中でしたから、その2年前に解散が問題になったなんて聞いたこともないのです。典拠を見ると、ディミトロフの『日記』から、とある。『ディミトロフ日記』なるものが公刊されているということを知ったのは、その時でした。
そこで調べてまず手に入れたのは、アメリカのエール大学で出した英語版です。続いて、ドイツ語版、フランス語版、中国語版もみつかりました。1933年5月から49年1月まで17年にわたる記録で、英語版はダイジェスト版なのですが、読んでみると実に面白いのです。
スターリンの近くでの17年の貴重な記録
――日記はどんなところから始まるのですか。
不破 それがヒトラー・ドイツの獄中からなんですね。ディミトロフはブルガリア共産党の幹部で、ベルリンに拠点を設けて国内の運動の指導にあたっていました。その頃、政権に就いたヒトラーが「国会議事堂放火事件」を起こし、これを「国際共産主義運動の陰謀」にでっちあげようとして、ドイツの共産党員だけでなく、たまたまベルリンに帰っていたディミトロフを逮捕したのです。
日記はその獄中記から始まります。ごく簡単なメモ書きですが、虐待に抗しての奮闘ぶりがよくわかります。そしてライプチヒでの裁判では、誰も名前を知らなかったバルカンの無名の革命家が、ゲーリングとかゲッベルスとかヒトラーの腹心の大物を相手に大論戦を展開して、一躍世界の注目の的になり、無罪を勝ちとりました。しかし、本国では欠席裁判で死刑判決が出ています。そこをスターリンが注目して、この「反ファシズムの英雄」をモスクワに呼び、コミンテルンの中心にすえようと考えたのです。
モスクワに行ってからも、ディミトロフは日記を書き続けます。日記は、2行の日もあるし、空白の期間もありますが、ともかく17年にわたり、スターリンの近くで仕事をした人物が、スターリンとの対話を含めて書き続けた日記というのは他に例がないし、本当に貴重な記録です。
身近で見たスターリンのときどきの人物像も見えてきます。たとえば、ディミトロフがモスクワにきた時、スターリンは実に温かい態度で彼を迎えて、何でも相談に乗ります。ディミトロフにとってはそれまでは遠くから仰ぎ見る存在だったスターリンでしたが、この対応で親愛感とともに絶大な信頼を抱くようになるのです。そして、1年もたつと、スターリンの言うことは絶対で、多少疑問をもっても従ってゆく典型的なスターリン体制の官僚的人物に変貌してしまう。日記ではその過程もよくわかるのです。
もちろん、彼の日記に出てくるのはスターリンの活動の限られた分野ですが、スターリンの足跡を歴史の流れに沿って“たて線”で見るのには、絶好の文献です。そこで、党本部で、社会科学研究所を中心に有志が参加する「スターリン問題研究会」をつくり、昨年から今年にかけて約10回、『日記』の翻訳をもとに私が報告しました。その経験からも、これを“たて線”に、“横線”には問題ごとのほかの資料を組み込んでゆけば、相当突っ込んだスターリンの覇権主義の歴史を描ける、こういう思いを強くしました。それで『前衛』で来年の2月号から連載を始めることに思いきって踏み切ったのです。
――かなり長い連載になりますか。
不破 予定ですが、2年前後はかかりそうですね。
覇権主義が完全な姿を現す転機となる「大テロル」
――スターリンがソ連の権力をにぎって、社会主義とは無縁な権威主義、覇権主義の巨悪に変貌してゆく。まずその過程にも光が当てられるわけですね。
不破 『スターリンと大国主義』で専制主義、覇権主義が完全な姿を現すのは1930年代半ば、「農業集団化」に始まった専制化の流れが36~38年の「大テロル」――何十万の人間の生命を奪った暴挙で本格的な体制となる。こう見ていたのです。そのことが今度の研究でもより詳細に立証されたと思います。
そして、ここをつかむのが大事なのですが、この大量の人間抹殺はスターリンがただこの連中は気に入らないということでやったものではないのです。「ドイツや日本の帝国主義と通じたスパイ・暗殺者の集団だ」という罪をなすりつけ、それを裏付けるシナリオはスターリンが自分でつくるのです。それでそのシナリオに沿った材料を無数に集めて証拠資料とするわけです。ディミトロフにしても、このシナリオの全体がスターリンの創作だとは夢にも思わないのです。だが、スターリンからシナリオを渡されて、「この通りにやれ」といわれた人々、秘密警察のごく少数の幹部だけはことの真相を知っているのですが、この人びとは事が終わると、みな「大テロル」の最後の犠牲者になるのです。
こうして、自分が創作した偽りのシナリオで罪を勝手になすりつけ、レーニンとともに革命をたたかった歴戦の闘士をはじめ、自分の専制支配の邪魔になると思われる人々を何十万も抹殺し、何百万の規模で弾圧を加えました。
このような暴虐は、社会主義や革命の精神を、ひとかけらでも胸に残している者には、絶対にできないことです。だから、この時期を経て以後のスターリンは、そういう「巨悪」へと完全な変貌をとげている、ここをきちんと見極めることがスターリン研究では本当に大事になります。
最近のいろいろなスターリン研究を見ると、「大テロル」はみんな痛烈に批判するのですが、いろいろな国の革命運動との関係や、あれこれの外交問題を取り上げる時は、その本性とは切り離してスターリンの動きをみるといったものに、しばしば出あいます。しかし、スターリンは、世界の共産主義運動の指導者として振る舞うためには、いろいろなことを社会主義の言葉、革命の言葉で語りますが、そこでやっていることの本音は、ソ連の国家的利害以外の何ものでもない。それを、社会主義とも革命とも無縁な人物が、革命の言葉を使って話している。その表と裏を見極めないと、本当の歴史は書けない、それが実感ですね。
(下につづく)
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