2013年8月20日火曜日

追悼 映画評論家、山田和夫氏の主要映画評を紹介します。
「アカハタ」1963年6月25日付から

映画 新安保条約から3年(下)  
観念の遊戯をのりこえてすすむ人民の闘争―山田和夫

こういう断絶と否定の思想は、生きいきとした現実の発展のなかにかれることのない、芸術的なイメージをくみ出すのではなく、せまい作家の「主体的」な観念のなかにいっさいの創造の源泉をもとめるさかだちした理論になります。記録映画作家の一部をとらえた「主体性論」がそうですし、花田清輝らはこれを〝シュール・ドキュメンタリー〟と称する奇妙な「理論」に反映させました。

大衆べっ視の思い上がった作品


 そして、このさかだちした「主体性論」は、一部の知識人たちのエリート(選良)意識をかきたて、広範な大衆を〝衆偶〟ととらえる思いあがった態度となってあらわれます。大島の「日本の夜と霧」では結婚式の祝辞をのべ、「若者よ」を合唱し、フォーク・ダンスをおどる女子学生たちがなんと見くだされ、軽べつされたえがき方をされていたことでしょう。同じように、松本俊夫が監修した記録映画「安保条約」は、製作の主体である労働組合の意向を押し切って出来そこないのアヴァンギャルド映画になり、そこでは安保条約のおそろしさが感覚的に強調されるとともに、大衆は無関心で太平ムードにひたっている〝衆偶〟として登場しました。釣場で糸をたれ、海辺でレジャーをたのしむ大衆の姿がその象徴のようにとりあげられたのです。そのあやまりは、あえて説明するまでもないでしょう。その作家的感覚は、「安保反対が国民の声だといっても、映画館や野球場は満員だ」とうそぶいた岸信介とえらぶところはありません。

黒沢の近作にみる色濃い孤立感


 
 
 こうした大衆にたいする見くだしたような態度もまた〝安保闘争〟の主力は学生と知識人だったという思いあがった姿勢のうらがえしでした。そして、同じようなエリート意識が〝安保〟以後の黒沢明作品にあらわれてきたことを、私たちはみのがすことはできません。
 黒沢明は〝安保闘争〟のまっただなかで、「悪い奴ほどよく眠る」ととりくんでいました。そのころ、〝安保闘争〟に積極的に参加していた監督新人協会の東宝支部が黒沢監督にぜひ集会に出席してほしい―と要請したことがあるそうです。そのとき、黒沢監督は「ぼくは集団とはいっしょにやらない。ひとりでやります」と答えたときいています。
 たしかに黒沢は「悪い奴ほどよく眠る」で人民の汚職にたいする怒りをつよく代弁し、政治機構の腐敗に迫りました。と同時に、〝安保闘争〟へのかれ自身の姿勢と同じように、「悪い奴ほどよく眠る」の主人公(三船敏郎)はだれの力も借りず、ただ一人で巨大な機構に挑戦します。汚職の犠牲となって自殺した父の復しゅうのため、現公団総裁の秘書にもぐりこみ、着着と計画をすすめます。しかし、権力は直接の暴力まで動員し、かれのたたかいは無残な敗北をとげ、「これでいいのか!」という友人の悲痛なさけびがいつまでも画面にこだましたのです。
 しかし、黒沢は「悪い奴ほどよく眠る」で少なくとも個人の孤立したたたかいー敗北すべきたたかいを敗北としてえがき出しました。次作「用心棒」(1961年4月)、「椿三十郎」(1962年1月)になりますと、「悪い奴ー」のヒーローが完全に現実から離脱し、観念のなかの超越的な個人ーいわばスーパーマンに変ぼうします。「用心棒」の宿場には、大衆の姿は見えず、ヒーローの三十郎は二組の暴力団のみにくい争いを火の見やぐらの上から、高見の見物をします。「椿三十郎」の若侍たちは、三十郎のいうように「まったくあぶなっかしくて見ていられない」連中としてえがかれています。その若侍たちがいわば素朴な大衆の代表なのです。
 「用心棒」や「椿三十郎」は東宝資本の〝大作主義〟路線にのっとって、黒沢自身「映画のおもしろさをねらった」といっている「娯楽映画」です。それがますますアメリカ映画的な「おもしろさ」に傾いてゆく問題点とともに、私たちは黒沢の集団や組織への不信、異和感、そして大衆より孤立した個人への傾斜ーといった姿勢を見おとすことができません。

2013年3月26日火曜日


追悼 映画評論家、山田和夫氏の主要映画評を紹介します。
「アカハタ」1963年6月24日付から

映画 新安保条約から3年  
「日本の夜と霧」に代表される断絶と否定の論理③


 大島は前年の処女作「愛と希望の街」で、ブルジョワ階級とプロレタリア階級の間には甘っちょろいヒューマニズムではどうにもならない断絶があることを、わかりやすくしかも新鮮にえがき出しました。階級間の断絶を確認することは正しいことです。ところが、第二作「青春残酷物語」になりますと、階級間の断絶が世代間の断絶にすりかわり、川津祐介、桑野みゆきら若い世代のエネルギーのアナーキーな放出が、桑野の姉や父の世代のうじうじした、だらしのない行動と図式的に対比されます。佐々木基一らが絶賛した有名なシーン―カーテンの手前に彼女が妊娠中絶したからだを横たえ、まくら元でかれがだまってリンゴをかみつづけます。カーテンの向こうで彼女の姉とその恋人である医師の去勢されたような会話。こみあげる怒りをかみしめるようにリンゴをかみつづけるかれ。長い長いワン・カットのシーンが世代間の隔絶をきわだ立たせました。

 

戦後の成果すべてを清算主義的に否定


 このような大島の思想と方法は、〝安保闘争〟のまっただなかでつくられた「太陽の墓場」で過去との断絶、戦後の成果をいっさい清算主義的に否定しようとするイメージとなってあらわれます。ラスト・シーンでドラマの舞台であるドヤ街のバラックが焼け、焦土の上を「終戦のときと同じだ」というせりふが流れるのです。それはつづいてつくられた「日本の夜と霧」で語られる「戦後は615日よりはじまる」というせりふとピッタリ照応します。

 こうして「日本の夜と霧」では階級間→世代間→過去と現在と変容してきた断絶と否定の論理は終着駅にたどりつき、歴史の主体である労働者階級とその前衛との断絶・否定という結果になってしまうのです。「日本の夜と霧」がインテリ同士だけの討論劇―もっと極端にいえばおしゃべり劇になり、知識人の間でさえ限られた支持しかうけられなかったこと、広範な大衆とは感覚的にも、知性的にも縁もゆかりもない「芸術」にとどまったことは、当然の帰結といえるでしょう。

 大島のこうした姿勢は、〝安保闘争〟の「挫折」をそれ以前の学生運動の「挫折」と結合させることで最高度に高まり、その後の作品にも尾を引きます。1961年末の「飼育」では大江健三郎の原作にあった素朴な連帯感まで一掃し、「天草四郎時貞」(19623)では弁証的な歴史観を無視し、島原の乱を主観的な「挫折」のイメージ一色にぬりつぶして、もう一度くらやみの戦略・戦術論争を再現しました。最近日本生命のPR映画としてつくった「小さな冒険旅行」が、童心の世界にまで疎外と断絶のイメージをもちこんでいることは気づかれた人も多いと思います。

(つづく)

2013年3月11日月曜日


追悼 映画評論家、山田和夫氏の主要映画評を紹介します。

「アカハタ」1963624日付から

映画 新安保条約から3年 「日本の夜と霧」に代表される断絶と否定の論理②

 さて、「死者をむくむおびただしい犠牲にもかかわらず、〝安保〟はやはり通過してしまった―620日以降、国会をおおうデモの波は急速に退潮してしまった」―国会周辺の、それもその年の5、6月という高揚期にだけ闘争に参加した人びとの目には、まるで運動が全面的に敗退したようにうつりました。一時的な興奮が大きく、それに没入した印象がつよかっただけに、その逆作用もまた急激でした。いまにも革命がおきそうな気がした気分の高ぶりから、闘争全体が壊滅してしまったかのような沈滞感へ。

そういう一部の心的状況を利用して、「安保闘争の敗北は前衛党の責任」というトロツキストや反党修正主義者たちの意識的な悪扇動がおこなわれ、さまざまな芸術作品にその影響があらわれました。

〝挫折〟ひきだした知識人の孤立感


 映画作品でその代表的なものは、さきにあげた大島渚の「日本の夜と霧」です。

「日本の夜と霧」は、文字通り〝夜と霧〟にとざされたある結婚式場を舞台にドラマを展開します。〝安保闘争〟から挫折を引き出した知識人の孤立感をあらわすように、ドラマの世界自体が周囲の現実から切りはなさされ、まるで演劇のようなワクにおしこめられます。1960615日をきっかけに結ばれた一組の男女。男はかつての学生運動の経験者であり、女は安保デモで傷ついた現役の学生です。当然のことですが、学生運動の二つの世代を代表する友人たちが一堂に会します。安保デモで逮捕状の出ている新婦の友人が会場に姿をあらわし、世代間の断絶、同一世代の対立がつぎつぎとむき出しにされ、お互いの過去を暴露し合う、はげしい討論のドラマが展開されるのです。

 現実の舞台は孤立したせまいわくに限定され、観念だけが過去にとび、現在にもどります。極左冒険時代の学生運動、非人間的なスパイの追及。そして一転した戦術方針。そのなかで苦悩し、挫折した人間像と、人間的責任とは無縁な「前衛」の行動。「真の統一と団結に到達するためには、われわれはもっと深くお互いの傷を見せ合わなければいけない」というもっともらしい大義名分のもとに、孤立した舞台にあつまる一群の人びとの間にさえ、なんの人間的なつながりもないことがしつように強調されます。望遠レンズをつかい、ただ発言する個々人だけを他から切りはなして追うカメラ手法。615の国会前すら、まっ暗やみの観念の過去にうかぶ一人ひとりバラバラの姿としてとらえる作家の目。

 それらはいずれも〝安保闘争〟を国会周辺、学生と知識人、19606月あるいは615のたたかいだけのせまい経験と実感にわい小化する姿勢の反映です。

 いわゆる「全学連」指導部の一人太田は、先輩たちが「前衛党」のいいなりになった不がいなさをののしり、先輩たちは同世代の「前衛」―中山や野沢たちの責任を追及します。その中山や野沢たちがもっとも軽薄であり、非人間的なタイプとしてえがかれているのです。そして、「現在必要なことは、中山さんたちを徹底的に破壊し、新しい前衛をつくることだ」とさけぶ太田が私服刑事に逮捕され、救援に走ろうとする学生たちをとどめた中山の空虚な「統一と団結」演説が霧のなかを流れ、ラストになるのです。
(つづく)

2013年3月9日土曜日


追悼 映画評論家、山田和夫氏の主要映画評を紹介します。

新聞「アカハタ」1963624日付から


映画 

新安保条約から3年 「日本の夜と霧」に代表される断絶と否定の論理 ①




 ちょうど3年前の19606月、国会周辺をデモ隊がうずめ、〝安保反対〟のさけびが全国で高まっていたころ、日本の映画作家たちたとえば大島渚は第2作「青春残酷物語」(63日封切)を発表し、黒澤明は黒沢プロの第1作「悪い奴ほどよく眠る」と取りくんでいました。新藤兼人が自費を投じた自主作品「裸の島」の完成を急ぎ、山本薩夫が関西の労働者、市民、学生にささえられて「武器なき闘い」の撮影をつづけていたのも、同じころです。

 そして大島の「青春残酷物語」はいわゆる〝松竹ヌーベルバーグ〟の口火となり、吉田喜重の「ろくでなし」、篠田正浩の「乾いた湖」、田村孟の「悪人志願」などがつづき、大島自身「太陽の墓場」(8月6日封切)を経て「日本の夜と霧」(10月9日封切)にたどりつきます。とくに「日本の夜と霧」は〝安保闘争〟を直接の契機としてつくられた数少ない作品として、封切前から〝マスコミ〟にさわがれていましたが、浅沼社会党委員長暗殺の翌日、わずか4日間の公開で上映を中止され、いま3年ぶりに一般公開されています。



闘争の沈滞感につけこむ意識的な悪扇動




 1960年6月20日午前零時、日米安保条約はただ物理的な時間の経過によって〝自然成立〟しました。その瞬間、国会周辺にいつまでも立ちつづけていた国民の間から「われわれは安保を認めない」と怒りのシュプレヒコールがさけばれ、その声が夏の夜空にこだましました。その怒りは全国の労働者、市民、学生すべてのものとして、今日までのたたかいのなかにうけつがれています。

 私たちはいま、地域で職場で〝米原子力潜水艦「寄港」反対〟のたたかいをますますつよめています。私たちにとっては、〝安保〟は3年前に終わったたたかいでもなければ、〝自然成立〟で終止符をうたれた敗戦でもありません。それどころか、〝米原子力潜水艦「寄港」反対〟のたたかいこそ、〝安保〟そのものが生み出した日本の核戦争基地化とのたたかいですし、そのたたかいをはげまし、私たちに確信をあたえてくれるのは、3年前あのたたかいがアイゼンハワーの来日を阻止し、岸内閣を倒して、帝国主義者たちの戦争計画に大きな打撃をあたえたという事実です。

 しかし、一方では〝安保〟のたたかいに結集された大きな人民の力―これを弱め、切りくずし、分裂させようとする必死の思想・文化攻勢がおこなわれています。19611月のケネディ大統領就任、同3月のライシャワー駐日大使任命は、いわゆる〝ケネディ=ライシャワー路線〟のはじまりでした。かれらの好餌(こうじ)となったのは、とくに一部の知識人をとらえた〝安保闘争〟の挫折(ざせつ)感でした。
(つづく)

2013年2月14日木曜日








⑤「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
    不破哲三/著    雑誌「前衛20132」より
 
「スターリン秘史」の執筆にあたって⑤

「ディミトロフ日記」との出会い②


 また、「日記」が、筆者であるディミトロフの精神的な変身の過程をおのずから描き出していることも、たいへん興味深い点の一つです。ディミトロフは、最初は、ヒトラーの政権獲得直後のドイツで、国会議事堂放火事件の共犯者として逮捕されながら、ゲーリングやゲッペルスまで相手にした法廷での熱烈な論戦で、ヒトラーらの陰謀を告発し、無罪をかちとった反ファシズムの英雄的闘士としてモスクワに迎えられ、1935年のコミンテルン第7回大会では、反ファシズム統一戦線という画期的な路線転換を実現するうえで、大きな役割を果たしました。その人物が、4年後には、活動のあちこちに共産主義者らしい善意を残しながらも、全体としてはスターリンの指示に無条件で従う官僚的な活動家に変貌してゆくのです。この過程も、スターリン専制確立の過程の重要な一側面を現わしていると思います。
 
 この「日記」を読む時には、それを書いているディミトロフの視野が一つの限界をもっていることにも、注意を向けなければなりません。スターリンは、「分割統治」という独特のシステムを自分の周囲につくりあげて、その分野でどんなに重要な人物であっても、担当分野以外の問題は知らせないという手法をとってきました。たとえば、第二次世界大戦の前夜にヒトラー・ドイツと手を結んだ時、ディミトロフらが知らされていたのは、世界に公表した相互の不侵略という表面的な内容だけでした。東欧再分割の秘密議定書の存在などは、それを知っていたのはおそらく直接タッチした一部の幹部だけで、ディミトロフなどコミンテルンの幹部はもちろん、ソ連の党・政府の指導部の大部分にも知らされなかった特別の機密事項だったと思います。ディミトロフらは、その重大な事実を知らされないまま、各国の共産党の活動を、反ファシズム統一戦線からヒトラー・ドイツとの提携路線に転換させる仕事をやらされるのです。

 そういう限界があるにせよ、「ディミトロフ日記」は、1933年から戦後に至る激動の時期をスターリンの身近で過ごし、その指揮下で国際活動の一翼をになった一人の人物が、その日々の活動を連続的に記録したものであり、他の文献に替えることのできない貴重な価値をもっています。

 私は、この「日記」の英語版をほぼ読み終えた時、この「日記」を縦糸に、その他の文献資料を横糸にして、スターリンの国際活動を研究してゆけば、スターリンの覇権主義の歴史的な実態に、かなりの程度まで迫れるのではないか、という展望をもちました。

今月から連載を開始する、「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」は、この構想にもとづき、「ディミトロフ日記」を縦糸とし、公開された内部資料を含むその他の文献も活用して、スターリンの覇権主義の形成と活動の全体像を描きだすことを意図したものです。スターリンの覇権主義の巨悪への変貌が歴然とした事実となるのは1930年代の半ば、それから1953年のスターリンの死まで20年近い歴史をたどることになりますから、私のいまの構想では、2年近い連載を予定しています。この角度からスターリン問題の解明は、共産主義運動のなかでスターリン時代がもっていた意味を根本から明らかにすることに役立つだろうし、日本の私たちにとってだけでなく、世界の共産主義運動の、科学性、道義性、発展性を持った前進にも必ず資するだろうことを強く希望するものです。

 なお、本文での「ディミトロフ日記」の引用は、英語版、ドイツ語版、フランス語版の各版を適宜利用しましたが、その都度、出典を記すことはしませんでした。「日記」の訳文は、英語版では岡田則男氏、ドイツ語版では大高節三氏にご尽力をいただき、英語、ロシア語、フランス語、中国語などのその他の文献では、党の国際委員会および社会科学研究所の諸同志に協力をいただきました。また、その他のロシア語の文献については、私の旧制一高時代からの友人で国際委員会の活動家の一人だった故大沼作人氏が残された訳業を広く利用させてもらいました。連載の開始にあたって、これらの方々に厚い感謝の言葉を述べるものです。






④「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
   不破哲三/著     雑誌「前衛20132」より

「スターリン秘史」の執筆にあたって④

「ディミトロフ日記」との出会い①

 
 コミンテルンが現実に解散の措置をとったのは19437月ですから、1941年といえば、その2年以上も前のことです。コミンテルン解散の国際情勢上の背景としては、米英ソの反ファシズム連合が形成されていた事実がよく指摘されますが、スターリンのこの発言が事実だとすると、それは、米英ソ連合どころか、ソ連を反ファシズム連合に参加させたヒトラー・ドイツのソ連攻撃(41622)もまだ始まってない時期のことになります。この時期にスターリンがコミンテルンの解散を問題にしたという事実は、私には、そこで初めて知ったことでした。ですから、いったいこの時期に、スターリンは、どういう情勢評価、どういう文脈でコミンテルン解散の計画を立てたのか、このこと自体にたいへん興味をひかれました。しかし、それ以上に私が研究意欲をかきたてられたのは、長期にわたってスターリンの身近にいた人物が、スターリンの言動を書きしるした「日記」なるものが存在して、ドイツ語にもせよ、すでに公刊されている、という事実でした。

 さっそく調べてみて、まず最初に手に入れたのは、アメリカのエール大学出版部が公刊した英語版(2003)でした。続いて入手したドイツ語版は、年代が「1933年~43年」とコミンテルンの解散まで区切られていましたが、英語版の方は「1933年~1949年」となっており、第二次大戦後、ディミトロフがブルガリアに帰国して以後の時期まで含まれています。ただ、内容は、「日記」全部の英訳ではなく、編集者が重要だと思う部分を選択して編集した抄訳版で、要所要所に編集者の解説が付けられているのが特徴です。

 「ディミトロフ日記」の原文は、19冊のノートからなっていて、まず、1997年にブルガリア語版がソフィアで発行され、その各国語約が順次発行されたようで、いま分かっているのは次の諸版です。

2000年 ドイツ語版。1933年~1943年の部分の全訳(上下2)

2002年 中国語版。桂林・広西師範大学出版部発行の「選集」。全時期にわたるが、中国関連部分に重点をおいた抄訳。

2003年 英語版。エール大学出版部の刊行。三分の一にカットされた抄訳版で解説付き。

2005年 フランス語版。全時期の全体が収録されている。

 さて、「日記」の内容ですが、まず英語版をざっと拾い読みして、驚きました。これまで秘密のベールに包まれていた多くの謎が、事実経過そのものが持つ力で、いとも簡単に解けてゆくのです。また、国際的な運動の中でよく知られた出来事で、それが起こったいきさつはこうだったとか、とはじめてその意味が分かり、腑に落ちるという問題も、随所にありました。これは、スターリンの覇権主義の歴史の研究にとって、きわめて有力な貴重な書物であることを痛感しました。

 コミンテルン書記長という、世界の共産主義運動の要をなす地位にいる人物の「日記」だとはいえ、他人に読ませるつもりのない、おそらく自分の心覚えとして書きとめたであろう日記ですから、その内容には限界があります。まず、全体は一日数行、あるいは一行の時もある短い文章が多く、そこで取り上げられている問題についての解説的なことはまったく含まれていません。しかし、時には、一行の文章のなかにディミトロフの強い感情が込めれれていて、そこから重要な情報を読み取ることができる場合もあります。また、全体として、スターリンと会った時の会話や、スターリンが内輪の会合で話した談話などは、その要点が克明に記録されています。








③「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
   不破哲三/著     雑誌「前衛20132」より


「スターリン秘史」の執筆にあたって③

「ディミトロフ日記」との出会い

 私が、ソ連の秘密文書の公開が開始された状況のなかで、何よりも期待したのは、スターリンの覇権主義の形成と巨悪化の歴史に内面からの新たな光が当てられ、その本格的な探究の道が開かれることでした。

 私は、ソ連解体のほぼ10年前の1982年、「スターリンと大国主義」を執筆しました(「赤旗」同年112日~218日に連載、同年3月、新日本新書として刊行)。この著作は、前半では、スターリンが国内の民族問題で大国主義の偏向をあらわにし、それと「生死をかけたたたかい」を宣言したレーニンの「最後のたたかい」から説き起こし、第二次世界大戦の前夜、ヒトラーとの領土分割の秘密条約(1939)が覇権主義への変質の転機を画したことを見、第二次世界大戦のあとまでその足跡をたどりました。後半では、スターリンの後継者たちの覇権主義を、日本共産党への干渉攻撃を含め、世界の共産主義運動への支配の策動、チェコスロバキアへの軍事干渉(1968)、さらに進行中のアフガニスタン侵略戦争(1979)まで、その巨悪のあとを追究しました。しかし、それは、あくまで表面に現れたソ連の公的な言動を材料にして覇権主義の足取りを追った略史の域を出ないものでした。

 ですから、私には、日本共産党への干渉史をめぐる経験から言っても、もしこの分野で関係する内部資料が公開されたら、スターリンの覇権主義の内実にせまる新しい研究が可能になることは間違いない、との強い期待が起こりました。もちろん、内部資料と言っても、スターリン時代と後継者たちとの時代とでは、その性格はかなり違っていたはずです。後継者たちのなかでは、スターリンのような個人専制主義体制を確立できたものは誰もおらず、大国主義、覇権主義の行動も、それをめぐる報告とか会議の記録とか、あれこれの公的文書がかなり詳細に残ります。しかし、ほとんど絶対的な個人専制の体制を確立したスターリンの場合には、スターリン自身の内面の考えを記録した文書は存在せず、あるものはおそらくスターリン周辺の人々の言動の記録だと推定されます。しかし、それにしても、この時代の内部資料が公開されれば、それは、疑いもなく、スターリンの覇権主義の歴史研究の新しい時代を開くものとなるでしょう。

 しかし、私のこの期待はなかなか実りませんでした。旧ソ連の内部資料を使ったソ連史研究の著作は、その後、ずいぶん刊行され、日本でもかなりのものが邦訳紹介されましたが、私の見る範囲では、そこで対象とされたのは、大量テロなどソ連の国内問題が中心で、覇権主義に焦点を当てた研究書は見当たりませんでした。対外関係を取り上げたのも、個別の条約問題などに研究を限定しているものが大部分でした。

 そういうなかでの4年ほど前のことでした。インドシナ共産党とコミンテルンの関係を取り上げた日本の研究者の著作[]を読んでいて、そのなかの一節に目をひかれました。スターリンが19414月、ボリショイ劇場での夕食会で、ディミトロフにたいしてコミンテルンの解散を促した、という事実が紹介され、その典拠として、「ディミトロフ日記」(1933年~43年ドイツ語版2000年刊)という書物が指示されていたのです。

★栗原浩英「コミンテルン・システムとインドシナ共産党」(2005年、東大出版会)
 








②「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
   不破哲三/著    雑誌「前衛20132」より

「スターリン秘史」の執筆にあたって②


スターリン時代の「50年問題」についても、私たちは、スターリンの主導で開始された無法な干渉行為の真相をはじめて本格的につかむことができました。

 私は、「干渉と内通の記録」を書きあげた時、「赤旗」連載の最終回で、次のように書きましたが、これはこの仕事をふりかえるとき、今も変わらない私の感慨となっています。

 連載を執筆しながら、私が日々に思いをあらたにしたことは、ソ連共産党指導部が、自分たちの覇権主義の野望の前にたちふさがる最大の障害として、日本共産党をいかにおそれたか、そして、日本共産党の自主独立の路線をくつがえすために、可能なあらゆる方策に訴え(巨額の秘密資金であれ、日本の反党分子の買収であれ、〝親ソ〟政党・社会党へのてこいれであれ、外国のソ連追従の共産党や国際組織の動員であれ)、その目的のためには文字どおり手段を選ばないやり方をとったことです。

 もちろん、私たちは、ソ連覇権主義とたたかうさいに、こうした作戦計画や陰謀の内面については、知るよしもありませんでした。日本共産党は、ソ連側が文章で攻撃してくれば反撃の論戦をする、内通者を使っての干渉工作をしてくればこれを正面からうちくだく、大衆運動に分裂をもちこんでくれば、その分裂策動を大衆的にも孤立させてこれをうちやぶる、国際政治のうえで侵略や干渉の誤りがおかされれば、正義と真実にもとづいて徹底した批判をする、という闘争を、正々堂々とすすめてきました。

 いまソ連共産党の内部文書をみると、私たちのこうしたたたかいの一つひとつが、干渉者たちのもっとも痛いところをつき、彼らを追い詰めて、干渉作戦を挫折や破綻に追いこむ力を発揮してきたことが、よく分かります。

当時、世界最大の社会主義国であることを誇っていたソ連共産党の指導部が、その権力と資金力をどのようにつぎこんでも、日本共産党の確固とした自主独立路線をくつがえすことはできず、逆にソ連覇権主義の墓穴を掘る結果となったのです。(同書・下384ページ)

 私がうけた印象として、もう一点つけ加えれば、それは、干渉工作の実行にあたったソ連共産党のすべての関係者が、世界の共産主義運動の「公認」の諸原則を真っ向から踏みにじる自分たちの悪業を、何の痛みも感じることなく、日常の業務として実行していること、そして、そのあからさまな経過を公式の文書で党指導部に平然と報告している姿でした。この世界では、「マルクス・レーニン主義」とか「共産主義の大義」などを決まり文句として口にするとしても、これは表舞台だけで通用する建前にすぎず、実際の行動を支配するのはソ連覇権主義の利害であり、「マルクス主義」も「レーニン主義」も「共産主義」も問題にはならないのです。社会主義・共産主義の事業とは無縁なこの体制は、明らかにスターリン時代につくりあげられ、後継者たちによって、自分なりの部分的修正を加えながらも、受け継がれてきたものでした。

2013年2月13日水曜日


①「スターリン秘史―巨悪の成立と展開」
    不破哲三/著   雑誌「前衛20132」より

 
「スターリン秘史」の執筆にあたって①

旧ソ連の秘密文書と「干渉と内通の記録」


 
1991年のソ連共産党の解体、それに続くソ連政治体制の崩壊後、旧ソ連の党や政府の内部文書の流出が始まりました。このことは、ソ連史の研究に、まったく新しい状況をつくりだしました。それまでは、ソ連史を分析するには、多くの場合、スターリンやその後継者などソ連の党・政府指導部の公的な言動から推論することが主要な方法とならざるをえなかったのですが、流出が始まった内部文書は、彼らがそれらの行動をどんな意図でもくろみ、どんな準備過程を経て実行に移したかなど、ソ連指導部の内面から探求することを可能にしたのです。これは、私たち日本共産党が、多年にわたってたたかってきたソ連覇権主義の実態を究明するうえでも、絶大な条件をつくりだすはずのものでした。

私がその意義を痛感したのは、「日本共産党にたいする干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から」(1993年)を執筆した時でした。

ことの始まりは、ソ連崩壊から一年ほど経った時期に、一部の週刊誌が、入手した流出資料を材料に、ある戦前の事件(★)を持ちだして、日本共産党への攻撃を企てたことでした。取り上げられた問題は、私たちには〝寝耳に水〟の話でした。私たちは即座の対応はせず、当事者の調査をおこなうとともに、モスクワに代表を送って、関係資料を手に入れ、この二重の調査で確かめられた事実にもとづいて、党中央委員会の責任で戦前のこの事件にたいする厳正な処置を決定しました。

 
  ある戦前の事件 野坂参三が、コミンテルンで活動していた時期に、ともに活動していた日本共産党の幹部・山本懸蔵について、日本の警察のスパイだという偽りの密告をした事件。党は、週刊誌が入手したソ連側資料も調査して、本人もその事実を認めたので、野坂を党から除名した。

 
この種の党攻撃は、その後も繰り返されたので、私たちは、モスクワでの関係資料の探求活動を続け、日本共産党や日本の政治にかかわる膨大な資料を入手することに成功しました。

こうして集まった資料は、旧ソ連のさまざまな関係機関から未整理のまま出てきたもので、最初見た時は、時間的な順序もその出所もはっきりしない、まったく雑然とした文書の堆積でした。しかし、時間をかけてそれを読み、関連をたどりながら意味を読み解いてゆくと、そこには、私たちが1960年代から70年代にかけてたたかい打ち破ってきた、フルシチョフ=ブレジネフ指導部の干渉作戦の全貌が、干渉の当事者たち自身の生の言葉で、くっきりと浮かび上がってきたのです。

この干渉作戦の目的や性格は、私たちが告発してきた通りのものでしたが、ソ連の党指導部がこの作戦を準備し実行したやり方は、私たちが想定した以上に大規模な、そして悪質で汚いもので、社会主義の大義などひとかけらもないソ連覇権主義者の醜い姿をさらけだしたものでした。

私は、ソ連は崩壊したとはいえ、ソ連覇権主義のこの害悪をきちんと歴史に記録することは、これとたたかってきた私たちの日本と世界にたいする責任だと考え、「日本共産党にたいする干渉と内通の記録」の執筆にとり取りかかりました。書いたものは「赤旗」に連載し、1993110日から616日まで、5カ月あまりの長期連載となりました。そしてこの連載は、同年9月、上下2巻の著作として公刊しました。(新日本出版社) 。

ここで執筆の内幕をひとつ紹介しておきますと、この年は6月から東京都議選が予定されていました。旧ソ連資料を利用しての党攻撃が、政治的思惑も絡んで選挙戦の直前まで続きましたので、それへの反撃の材料として、連載を都議選の告示前に完了することが、私にとっての至上命令だったのです。ところが、途中で連載完了に必要な日数を計算してみると、どうしても日数が足りません。選挙の告示は待ってくれませんから、計算の合わないところは連載のやり方で合わせるしかないということになり、終わりの頃には(9部と第10)2日分あるいは3日分を一挙に連載するなど、日刊新聞としては非常識なことを十数回も繰り返しました。そのため、連載日数は5カ月ほどですが、連載回数はその日数を大きく超える165回になったのでした。

秘密文書に接して、私たちがはじめて知った事実はほとんど無数にありました。ごく主だったものとして、次の諸点があげられるでしょう。

イ、反党分派の中心人物である志賀義雄のソ連党指導部への内通は、1960年に始まっていた。

ロ、1962年に日本政府との文化協定交渉を名目に来日したソ連の公式代表団は、実態は干渉を準備し内通者を組織するための工作者集団で、それ以後、干渉作戦の準備は、東京のソ連大使館を指揮所として進められ、志賀、神山茂夫らの内通関係も系統だったものになった。

ハ、国際問題についての日本共産党の立場を本格的に解明した196310月の7中総(8回大会)のさいには、志賀は事前にソ連大使館との打ち合わせを重ね、事後にはソ連の党指導部に「通報」を送って、今後のいっそう緊密な指導と援助を要請していた。

ニ、志賀は、7中総の開催前に分派活動のための「物質的援助」をソ連側に要請し、19642月から大量の資金提供が始まって、5月の志賀の〝旗揚げ〟の準備が秘密裏にすすめられた。

ホ、196410月、ソ連共産党の責任者がフルシチョフからブレジネフに交替したあと、干渉作戦はいよいよ露骨なものとなり、6510月の参院選東京選挙区での共産党への対立候補擁立、各派の反党分子の総結集などは、すべてブレジネフ指導部の筋書きにそって実行されたものだった。

2013年1月10日木曜日

平成18年6月27日 
那覇市国民保護条例に関する議案に反対する
日本共産党渡久地修市議(当時)の反対討論

◆渡久地修 議員 

 議場の皆さん、おはようございます。
 私は、戦後世代です。去年の6月、私たちの大先輩の当真嗣州さんが32年間議員を務めて、ちょうど6月のこの定例会で勇退いたしましたが、そのときに自分の政治的な原点、戦争を絶対繰り返してはならないということを去年、ここで一生懸命述べて、勇退していきました。
 きょう、この討論に際しまして、事務局に調べてもらいましたら、44人の議員中、8人の方が戦争体験者です。そして、私を含めて36人の方が戦後生まれです。そして、そのうち3人の方が復帰後世代です。そういう意味で私たちは沖縄戦の悲惨な実体験を風化させないために、努力していくことが求められていると思います。

 私は、日本共産党を代表して、議案第55号、那覇市国民保護協議会条例制定についてと、議案第56号、那覇市国民保護対策本部及び那覇市緊急対処事態対策本部条例制定について、に反対の立場から討論を行います。

 あの忌まわしい沖縄戦が終わって61回目の6月23日、「慰霊の日」が今年もやってきて、そして過ぎていきました。住民を巻き込んだ地上戦が戦われ、20数万人の貴い命が奪われ、県民の4人に1人が亡くなりました。住民保護の名の下に、軍隊の作戦行動の邪魔にならないようにと、住民は、強制的に南部や北部に避難させられ、学童疎開で本土、台湾へと避難させられていきました。
 住民を守るはずだった軍隊によって、避難壕から住民は追い出され、また、住民はスパイ扱いされ、あるいは集団自決の強要など、数々の悲劇的な事件も起こりました。対馬丸の悲劇、戦争マラリアの悲劇、私たちは、このような沖縄戦の悲劇を二度と繰り返してはなりません。
 糸満市摩文仁にある、県立平和祈念資料館に県民の誓いの言葉があります。
 「沖縄戦の実相に触れるたびに、戦争というものは、これほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。この生々しい体験の前では、いかなる人でも、戦争を肯定し美化することはできないはずです。戦争を起こすのは、確かに人間です。しかし、それ以上に戦争を許さない努力ができるのも、私たち人間ではないでしょうか。戦後この方、私たちはあらゆる戦争を憎み、平和な島を建設せねばと思い続けてきました。これが、あまりにも大きすぎた代償を払って得た、譲ることのできない私たちの信条なのです」と書かれています。私は、6月23日が来るたびにこの言葉を思い起こします。

 今回、提出された条例案は、この沖縄県民の心情を逆なでするかのように、再び戦争のための準備をしているような危惧を抱かせるものであります。
 条例案は、国の武力攻撃事態法とそれにもとづく国民保護法がその大もとになっています。
 条例案の説明でも明らかなように、沖縄や那覇市への武力攻撃を想定したものになっています。その武力攻撃とは、敵の着上陸侵攻、ゲリラや特殊部隊による攻撃、弾道ミサイル攻撃、航空攻撃を想定しています。
 条例審議の中で、どの国が、那覇市のどこに着上陸侵攻してくることを想定しているのかなどの質問に対して、当局は、これから協議会で検討するという一点張りで、一切答えることができませんでした。

 歴代自民党政府はこれまで、ソ連脅威論を振りまいて日本への侵略の危険をあおり、有事法制の必要性を主張してきました。しかし、ソ連が崩壊して以後の国際情勢の大きな変化の中で、この種の脅威論はもはや説得力も失なっています。実際、政府が昨年12月に策定した「防衛計画の大綱」では、「冷戦終結後10年以上が経過し、米ロ間において新たな信頼関係が構築されるなど、主要国間の相互協力・依存関係が一層進展している」という情勢認識を示して、「見通し得る将来において、我が国に対する本格的な侵略事態生起の可能性は低下していると判断される」と明記しているではありませんか。
 また、武力攻撃のときに、住民の避難といいますが、法案では、実際には、米軍・自衛隊の作戦行動を最優先する仕組みのもとで、作戦地域から邪魔になる住民を排除するために避難させようとするものになっています。住民の保護の名のもとに、沖縄戦では多くの住民が戦争に巻き込まれ犠牲になったのは、歴史の事実ではありませんか。
 さらに、今回の条例案は、消火や医療、負傷者の搬送などに市民を駆り出し、物資を収用し、報道を規制し、罰則までつけて、国民・市民を戦争に動員していく仕組みになっています。
 しかも、今回の条例案の重大なことは、那覇市に自衛隊なども加わった国民保護協議会を設置し、市民動員の計画を作成し、訓練を行い、市民への啓発を行おうとしていることです。
 まさに、日常的に、「日本が攻撃されるぞ」「那覇市が攻撃されるぞ」という危機意識を植え付け、普段から戦争体制に市民を組み込むシステム作りにほかなりません。そして、それは、日米軍事同盟体制維持、沖縄への新基地建設押し付け、軍備増強、米軍と自衛隊の一体化、軍事費増大、軍需産業の肥大化へとつながっていき、アメリカがアジアで引き起こす戦争に、日本も一緒に参加するという体制を作り上げていくことが大きな目的なのです。
 さらに、今回の条例案は、自衛隊などが参加し、国民保護協議会をつくって、保護計画を作るということになっていますが、一たんこの組織をつくってしまえば、市民の代表である議会が一切その内容に関与できないものになっています。まさに、議会のチェックなしに、備えあれば憂いなしと言って、戦前の軍部が侵略戦争へと暴走していったものと何にも変わらない恐ろしいものになっています

 議場の皆さん、市民の皆さん、今度の条例は、国が決めたことだから、仕方がない、法律どおりに那覇市はやるだけと言っている方々もいますが、それで済まされるものでしょうか。戦争はいきなりやってくるものではなく、国民、市民の気がつかないうちにひたひたと忍びよってくることを教えています。

 1925年、大正4年、治安維持法制定。
 1931年、昭和6年、満州事変。
 1933年、昭和8年、小学校1年生の国定教科書の改悪。
 それまでの「ハナ、ハト、マメ、マス、ミノカサ」といった小学校の読本が、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」になり、小学校唱歌は、「春の小川はさらさらいくよ」から、「肩を並べて兄さんときょうも学校へいけるのは兵隊さんのおかげです」に変わっていきました。
 1938年、昭和13年、国家総動員法制定。
 1940年、昭和15年10月、大政翼賛会。
 1941年、昭和16年、真珠湾攻撃、太平洋戦争の勃発。
 1945年、昭和20年、沖縄戦。
 1945年8月、広島、長崎に原爆投下。

 1974年4月11日、自民党幹事長代理だった野中広務氏は、駐留軍用地特別措置法(特措法)の委員長報告の最後に、「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いを」と、喝破しました。

 皆さん、みんな「右へならえ」でいいのでしょうか。
 地上戦を体験した沖縄県民、那覇市民の平和への思いを私たちは国や全国に伝え、戦争を食い止める責務があるのではないでしょうか。国が決めたことだからで済ましてはなりません。

 2003年6月、武力攻撃事態法が成立しました。
 2004年1月、自衛隊のイラク派遣。
 2004年6月、武力攻撃事態等における国民の保護のために関する法律をはじめ、米軍支援法など関連七法が成立しました。
 2006年5月1日、在日米軍基地の再編計画の日米最終合意が行われました。
 2006年6月、この那覇市議会で国民保護法に基づく条例が提案されました。
 そして2006年、通常国会へ、戦前の治安維持法を思い起こさせる共謀罪法案が提出されました。
 同じく2006年、通常国会へ、愛国心などを強要し、国家が教育に介入できるようにする、教育基本法改悪案が国会に提出されました。
 2006年、そして、とうとう憲法改定のための、国民投票法案が提出されました。
 まさに、ひたひたと再び戦争のできる国への道、戦前になりつつあるのではないでしょうか。

 戦前、ナチスに最後まで抵抗し、敗戦までダッハウの強制収容所につながれた神学者、マルチン・ニーメラー牧師の有名な言葉があります。
 マルチン・ニーメラー牧師はこう言っています。

 「共産党が弾圧された。
 私は共産党員ではないので黙っていた。
 社会党が弾圧された。
 私は社会党員ではないので黙っていた。
 組合や学校が閉鎖された。
 私は不安になった。しかし黙っていた。
 教会が弾圧された。
 私は牧師だから行動に立ち上がった。
 しかし、その時はもう遅かった。」

 議場の皆さん、市民の皆さん、ワイツゼッカー元ドイツ大統領は、「過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在に盲目になる」と述べました。
 我々は、ものを言わなければならないときには、ものを言う勇気を持ち、言うべきときに言わなければ、言うことができなくなる時期があるということを、歴史の教訓の中から引き出すべきではないだろうかと思います。

 1946年11月3日、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と日本国憲法が制定されました。
 憲法第9条に、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と、規定されました
 あの侵略戦争の反省と教訓から導き出された、世界に誇るべき規定です。この憲法の精神と9条こそ、私たちが平和に生きる道筋を示しています。今の時期こそ、私たちが大きな声を上げ、戦争につながる一切のものに、ものを言うべき時期です。

 二十数万人の貴い命が奪われた、沖縄、那覇市の議会として、将来に禍根を残さないような判断が必要だと思います。

 議案第55号、那覇市国民保護協議会条例制定についてと、議案第56号、那覇市国民保護対策本部及び那覇市緊急対処事態対策本部条例制定について、反対するものです。
 議員各位のご賛同をお願いします。